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自分の「個性」は一番の武器になる

 前回の投稿から『元新体操選手が考える「美」』シリーズがスタートしました。新体操での「美」について、かれこれ1年くらい考えてきてはいるのですが、まだ自分の中でも「これだ!」と思えるキーワードが出てきていません。このシリーズは長くなるかもしれませんが、新体操という枠を遥かに超えて幅広い知見を参考にしたいという思いがあります。私も猛勉強しながら頑張りたいと思います…!

 さて、今回は「個性」についての話です。私は新体操に限らず、「人とは違いたい」願望があります。どこかにいそうな人間にはなりたくないと思っているのですが、皆さんはどうでしょうか?私の専門分野である教育での知見を参考に、個性について、さらにはそれが新体操でも一番の強みになるという持論を展開していきたいと思います。

個性を育む教育なんて簡単に言うけれど

 「個性を育む」このフレーズ、ほとんどの人が耳にしたことがあるのではないでしょうか?そう、学校目標なんかで謳われることの多いフレーズです。「個性を育む」ことって、教育にとってはいいことだと思いませんか?私もそう思います。私が学部で教育者の端くれとして勉強しはじめた頃は、どんな先生になりたいか?と聞かれたときに、「個性を大切にする教師」とよく言っていたものでした。しかしそのときから、自分の中でこの答えがぼんやりしているなということは感じていました。具体的にどうすればいいかとか、そもそも「個性」とは何かなど、この答えに深入りされてしまえば困るなと思いながら答えていました。

 その「なんとなくいいものだ」というイメージは教育界でも同じです。教育界で「個性」という言葉が流行り出したのは平成になってから。それまでの教育はいわゆる「詰め込み型」。記憶重視の教育だったのですが、求められる人間像は時代とともに変化します。科学技術の進歩に伴う情報社会の到来は、知識よりも情報を取捨選択したり、自分で創造し表現する新しい人間像を求めました。「個性」を育むことは、創造的な人間を育むことに繋がる、だから重要だと考えられるようになったのです。

 そのような背景もあり、この文言は学校目標に採用されることが多くなったのですが…学校目標には、その下にその目標を達成するための小目標が掲げられることが多いのですが、その小目標を見ても、「個性を育む」とは少しズレているような目標が並んでいる気がしてなりません。そもそも「個性とは何か」「個性を育むためにどうすればよいのか」がはっきりしていないのではないでしょうか。この問題はすぐに答えを出せるようなものではなく、先に述べたような時代背景もあり、そもそも疑いを持つことなく私たちは勝手にいいものだと捉えて使ってしまっている現状があります。

個性とは?

 では、この問題を少し紐解いていきましょう。

 樋口聡・山内規嗣『教育の思想と原理−良き教師を目指すために学ぶ重要なことがら−』(協同出版・2012)では、この「個性」を「教育」の一つの考えるテーマとして取り上げています。

 さらにここでは森田尚人ほか(編)『個性という幻想(教育学年報4)』(世織書房・1995)という書籍の中の小浜逸郎「個性という強迫」の部分を紹介し、その中で上述のような問題を取り上げています。この「個性という強迫」から、主に〈「個性」と「個」が混同されている〉〈「個性重視」を標榜することは「画一的」と言われることの裏返しだ〉〈個人の個性までもを教師が育成できるのだという幻想がある〉という3つを問題点として掲げています。軽く解説すると、

「個」とは、「人間」とその尊厳さの発見の前提になるもの。個物や個体といった、存在の単位と関わる。 / 「個性」とは、他の人とは違う、その人だけが持っている何かを指す。価値的なものと結びつけて理解される。=「個性」の持ち主の充実した生き方や自己実現という価値と関連付ける必要があるということ。
「凡庸さ」を嫌う一種の強迫概念がある。公教育は平等であるべきで「画一的」だが、その中でも質の差異は生じてしまう。その質の差異を露出しないための呪文として「個性」を使っている。画一的(みんな一緒)であることに対する不安の裏返しとして「個性」を重視している。
元々公教育が人間の育成に関われるのは人間の共通性に関わる部分にほぼ限られる。そんな公教育で「教師が子どもの個性を育んであげる」ことができると思っているような意識は危険だ。

 大事なところだけまとめると、「個性」は価値的なもの(その人の自己実現等)と結びつけて理解される必要があり、それは大人が作ってあげることができるようなものではない、ということです。また小浜は

「せいぜい可能であり必要でもあるのは、〔個性を育てる教育ではなく〕方法としての個性的な教育である。」

と述べ、教師自身が個性を発揮しているのを見せることが大切だとしています。安易に「個性を大事に〜」なんて言っていた自分が恥ずかしくなりました。肝に銘じます。

個性と人格

 さらに『教育の思想と原理』の中で樋口は、「人格」と「人格性」という概念についても考えています。先程述べた「個」と「個性」とそのまま意味合いは連動します。

「個」−「人格」、「個性」−「人格性」

 樋口は、美学研究者の今道友信の

「人格」:形而上学的(けいじじょうがくてき)概念、存在論的概念。一つ一つが神の前に平等の存在である。 / 「人格性」:歴史的概念。人格が時間において自己を展開させていった軌跡、「人柄」とも言える。また、優劣のような区別がある。他者の比較の上に成り立つ。

 という考えを参考に、

 もう一つ留意すべきは、「人格性」としての「個性」が、他者との比較の上に成り立つものだということです。

とし、「個性」は他者との比較によって理解ができるとしています。

個性は人からの評価によって「個性」となる

 かなり引用が多くなってしまいましたが、最後に大事な部分をもう一つ引用させてください。

 人格性(=個性)は、他者によって作られる(構成される)と言うことができるのです。他者が紡いでくれる人格性の語り、それは多くの人格性との比較の中で際立つもので、さらにその他者の語りを当人が充実した生き方や自己実現という観点から受け入れ共感できるものたりうるとき、そのときにはじめて、その人格性を「個性」と呼んでいいのかも知れません。

 いろんな人を見てきた他者が、その人(自分)がどのような人格性を持つのかを、比較のもと判断し、伝え、さらにはその中から自分の生き方にハマって共感できたもの「個性」となるということです。

 確かに、私も家族や友人、指導者から「あなたはこういう人よね」と言われたものを取り込んできたような気がします。人からの太鼓判と、自分の中での納得があって「個性」が成り立つのですね。

自分の個性は強みになる

 ここまで、引用もふまえながら「個性」について見ていきました。私は、この「個性」を知っていることが強みになると考えています。特に表現が伴う新体操では!

 まず、個性は「人からの太鼓判と自分の納得」のもと成り立つという話をしました。これはかなり確証がある状態だなと感じました。自分を表現するにあたり、ある程度の「自信」が必要ですが(自信なくて恥ずかしがっていれば表現なんてできませんから)、他人も自分も納得していることは、自信を後押ししてくれる大きな要因になると思っています。自分の個性を把握できているということは思いっきり自分を表現することに繋がります。

 また、この「個性」は「自己実現や生き方に関わる」ともありました。これは以前からちょこちょこ言っている「目的」にも繋がるのではないでしょうか。自分がどのような新体操をしたいか(新体操をする目的)に、「個性」は“自己実現”という点で絡んでいます。「個性」を分かることは自分の目的を達成する一つの要因になり得そうです。

 最後に、「個性」は「その人だけが持っている何か」。唯一無二の存在ということです。自分にしかないもの=他の人にはないもの、ここにしかないもの=魅力です(ちょっとこじつけ感ありますが…)。「個性」を知ることは自分の魅力を知ることにもなり、自分にしかできない新体操ができる喜びを感じることができるようにもなるのではないでしょうか。

まとめ

 今回は「個性」にまつわる教育学的な話から、自分のスポーツをする「目的」という大きな柱につなげた話をしました。引用が多くて読みにくかったかもしれませんが、せっかくなので勉強がてら教育的な話も盛り込んでみました。

 友達や家族、指導者と関わる中で、自分の個性を見つけそれを強みにする。(もちろん自分が他の人の個性を見つけることもしたいです。)個性は自信にも目的達成にも、喜びにも繋がる大事なものだと言えそうです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

〈参考文献〉

樋口聡・山内規嗣『教育の思想と原理−良き教師を目指すために学ぶ重要なことがら−』(協同出版・2012)

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