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アート思考×スポーツでできること

 ここ2年で衝撃を受けた書籍のひとつが、『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』(山口周・光文社新書)でした。そこから「アート思考」なるものに興味を持つようになったのですが、そんな”アート”に敏感な私に宝石のように輝いて見えたのが『13歳からのアート思考』(末永幸歩・ダイヤモンド社)でした。今回はこの「アート」を題材にした2つの書籍から、スポーツが目指すべき方向性について考えてみたいと思います。

 はじめは書籍の解説になります。「アート思考について知っている」という方は、4題目の「私がアート思考が苦手なのはスポーツ経験が原因だと思う。」から読んでいただけると時短です。

これからどんな時代になるの?

 ここでなぜ「アート」が注目されるようになったか。それは、これから人類が直面する時代が影響していると言います。

 今、私たちの周りにはいろんな機械があって、インターネットが張り巡らされていて、非常に便利な世の中になっています。一方で、科学技術の進歩に伴い、人類の「存在意義」が問われている状況であることも否めません。多くの仕事がAIにとって代われると言われる中で、このままでは仕事もなく途方に暮れてしまう人々が出てきてしまうと言います。

 両書では、「VUCA」という社会情勢が引き合いに出されています。「VUCA」とは、

V=Volatility;変動
U=Uncertainty;不確実
C=Complexity;複雑
A=Ambiguity;曖昧

の頭文字を取ったもので、予測できない社会になっているということを表したものだと言います。確かに、世の中のあらゆるものについて、変化していて・不確実で・複雑で・曖昧だと思われる事情がたくさんあります。インターネットの在り方だってVUCAだし、そのような”モノ”だけでなく、家族の在り方といった人間の生き方に関わることに対してもVUCAであると言えるでしょう。

じゃあ人間はどうすればいいのか?

 このような時代にあって、人間はただ無力なままAI頼りの世界になっていくのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。人間は、上記のような予測できない時代において、どうやって生きていくかという新たな問いを立てました。

 人間はこれまで、「いいものをたくさん、早く作る」という思考で成長してきたと言います。特に日本の企業においては、この方針で勝ち残ることに成功してきました。しかしそれでは、「作り方さえわかれば、誰でも真似することができる」ことになってしまいます。これを山口さんは「正解のコモディティ化」と呼んでいます。「オリジナル」としてスタートしたとしても、周りが真似してしまえば、それはもうオリジナルではなくなってしまいます。

 更に、今ある規則(法律など)では判断できない事柄も増えてきたと言います。法律的にはおっけいだけど、人道的にどうなのか…といった事象などなど。法律でだめならば、判断は簡単ですよね。それはしてはいけないこと。しかし法律に頼る思考では追い付かない問題が出てきているというのです。これを山口さんは、「人間が法律を追い越した」と表現しています。

 さらに、これまで「みんな同じ」でよかったものが、最近は「人とは違う」「自分らしさ」が求められる時代になってきたと言います。確かに、私も昔はみんなと同じような服を着て、同じ持ち物を持っていたかった。最近では人と違うことをしたいと思うようになっています。山口さんは「世の中は感性に訴えるものを必要としている」という言葉で説明しています。

 このように、これまではよかったものが、VUCAに伴い変化してきたというのです。これらは現代、更に未来が背負う複数の問題であるかのように見えますが…

 そこで「アート」の登場です。アート思考を身につけることで、VUCAの時代にある問題を解決することができるというのです。

アート思考とは?

 さて、上記のような難しい問題を解決する「アート思考」とはどのようなものなのでしょうか。

 それは、末永さんによると「自分だけのものの見方」であり、山口さんによると「直感と感性を重視した自分なりのものさし」であると言います。つまり、データや他人の評価に頼らない、自分の中の価値判断の基準であると言えるでしょう。私自身、これは苦手とするところなんですが…。

 この自分なりの価値判断基準を身につけるために、「芸術作品」の鑑賞や創作行うことが、鍛える手段として掲げられています。

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ここから本題↓

私がアート思考が苦手なのはスポーツ経験が原因だと思う。

 先に、「私はアート思考(=人に頼らない価値判断)が苦手だ」という話をしました。これは、私自身のスポーツ経験に起因していると思っています。

 私はスポーツを、競技として13年行ってきました。試合で勝つため、日本一になるために、毎日遊ぶ時間・勉強する時間を惜しんで練習してきました。私の中で、スポーツは自分を構成している主要因であり、生活の一部(どころか8割以上は占めていました)でした。スポーツの世界で勝つ、更に勝ち続けるには、生半可な気持ちでは叶いません。指導者から多くの厳しい言葉をかけられながら、時に理不尽にも耐えながら、毎日乗り越えていました。先生の言うメニューを毎日こなし、先生から言われた指摘をその都度修正しながら過ごす毎日の中で、「なぜ自分はスポーツを、新体操をしているのか」という問いに、いつの間にか答えられなくなっていました。そして、「自分は選手としてどうあるべきか」「どういう演技がしたいのか」という、選手としての土台がないまま、高校卒業と同時に13年の新体操競技人生を終えました。

 現役を引退して5年以上たった今、改めて自分の競技人生を振り返ると多くの反省がありますが、その最たるものは「自分の考えがなかった」ことです。先生から言われたことはしっかりできます。ただ、自分の何が悪いのかは自分ではわかりません。それはつまり目指すべき自分の在り方がノーイメージだったからなのですが、自分を見つめる時間もないほどに多くのことを先生に言われ、更に先生の言うことに対して「YESかはい」でしか答えられなかったことに一つ、原因があるのでは?と思っています。(もちろん私自身が時間を見つけて考えればよかったのですが、当時は本当に余裕がなかった。)

 スポーツ指導において、指導者の言うことを聞かなければならない状況下で過ごしてきた人は、私のような状況に陥ってしまっているのではないでしょうか。

アート→スポーツでできること

 ですが、アート思考はスポーツにとっても重要であると考えています。それは、

①自分の身体は自分しかわからない
②データ先行型スポーツでは頭打ちがくる
③スポーツは身体だけではない

上記3つの理由から、アート×スポーツの重要性を痛感しています。

①自分の身体は自分しかわからない

 私の経験を少し語らせてください。

 新体操はほかのスポーツと同様、同時に多くの動作をする必要があります。更に、日常とは異なる動きであるので、理想的な動きを習得するまでに多くの鍛錬が必要となります。先生は、私の動きを見て良し悪しを判断し、(何がだめで;言われないこともある)どうすればよいかを指導してくれます。例えば、「後ろ持ちターン」という技をします。(足を後ろから持った状態で、片足軸に回転する技。下記に写真貼ってます。)この時、先生の判断が一言で本質をついている可能性はもちろん100%ではなく、更に多くの動作がかみ合っている複雑な動きであることから、複数回にわたって、複数のポイントが指導されます。それは軸足のことだったり、上げている足のことだったり、足を上げる前の動作であったり…。私の中には多くのポイントが蓄積されます。私は言われたことを守ろうと、すべてのポイントをこなせるようにします。結果、守るべきポイントにがんじがらめになり、まぐれに頼ることしかできなくなりました。

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↑後ろ持ちターン;この状態で右手方向に回る技です。

 これは、自分の中でどのポイントが重要であるか、更に状況に応じた守るべきポイントの比重がわかっていなかったことに原因がある事例です。

 いくら先生が熱心に指導してくださっていたとしても、①そのポイントは先生(第三者)からの判断であること、②ポイントの重要性などを、身体を動かす本人がわかっていないと成功にならない、のです。自分の身体にあった判断は、自分なりのものさしがないと叶いません。

②データ先行型スポーツでは頭打ちがくる

 スポーツと科学技術は切っても切れない関係にあります。運動や身体の仕組みが、データによってわかり、データによってどのスポーツもレベルが上がってきています。更に、「体脂肪を減らすには何をすればよいのか」といったデータもすぐに手に入る世界です。スポーツはデータに頼ることが必要不可欠な時代がやってきています。

 しかし、データにとらわれすぎて、自分の身体を無視してしまっている現状もあるようです。いいことだと言われているメソッドを実践しても、怪我をしてしまったり、技術習得が見込まれなかったり…これは、「データ先行型スポーツ」と言えるかと思います。これは外部からのデータに頼る「思考停止」状態ともとれかねません。

 競技成績を上げるためにデータを用いるのはよいですが、そこでも自分なりの価値判断が必要になってきます。

①②に関連することは以下の記事にも書いています。↓


③スポーツは身体だけではない

 スポーツをするためには、身体を鍛えればよいのでは?-そんな疑問が皆さんの中に生まれていないことを願っています。スポーツは、というか”人間存在”においては、身体は独立できないと考えています。

 身体を動かすには、頭から「動け!」という指令が必要ですよね。ただ、私が言いたいのはこういったことではありません。スポーツをするという行為において、自分で判断することが求められる場面が大いにある、ということです。

 練習メニューでも、同じ競技でも自分に必要なもの・不必要なものがあります。集団競技でも、それぞれ役割が違うはずです。もしかしたらその””役割”は自分らしさが尊重されるところに配置されているのかもしれません。更に、そもそも「なぜスポーツをするのか?」という根本的なところでも、「自分は」という思考が必要です。つまり、スポーツにおいては、ほとんどの場面で「自分なりの思考」が求められているということです。スポーツは身体を鍛えればできるようなものではありません。

スポーツ→アートで期待すること

 スポーツをする上で、「アート思考」は必要不可欠なものであること(アート→スポーツ)を述べてきました。最後に、「スポーツでアート思考を鍛える」(スポーツ→アート)可能性について考察してみました。

まず、スポーツを見て価値判断をするということです。

 スポーツ(一つの動きでも)において、技能を習得するには「その動きはよいか悪いか」の判断が必要です。ドイツの運動学者マイネルも、まずは感覚的に動きの良し悪しを判断する力が必要であるという趣旨のことを述べています。動きは多種多様、まったく同じ人が存在しないのと同様、まったく同じ動きは存在しないと思っています。(それでも新体操の団体競技のように、まったく同じ動きに見せなければいけないこともありますが。)動きの良し悪しは競技によっても、求められる場面によっても異なります。自分の競技・役割に当てはめて、「動きの良し悪しを判断する」ことは、アート思考を鍛える一種の手段となるでしょう。

次に、状況判断をすることです。

 スポーツにおける状況判断とは、チーム全体の動きの中で自分がどう動けばよいかを瞬時に判断するということです。横の人が右に動いたから私も右に、ではなく、私は空いているあの空間に行く、という判断ができるということです。この状況判断も、一種のアート思考ではないでしょうか。
 これは多くのスポーツにおいて求められているものですよね。ということは、状況判断が必要とされる多くのスポーツを経験することによって、いつの間にかアート思考が鍛えられていたということです。

スポーツの観戦(みる)と、実践(する)行為において、アート思考が鍛えられる道が見えてきました。

 ただこれは、指導者の価値観の押し付けでは叶いません。指導者は本人の思考を尊重する必要があります。では指導者は何をするのか?いくら自分なりの思考をと言っても、スポーツにおいてはよい・悪いがあります。本人が間違った価値を選択しないようにする点に、指導者の存在意義があるでしょう。(これはまた後日まとめます)

まとめ

 とても長くなってしまいました。根気よく最後まで読んでいただいた方はいらっしゃるのか。本当にありがとうございます。

 スポーツは身体という、いわば人間存在の根本とも言えるものにダイレクトに働きかける営みであると考えています。とすれば、ここで鍛えられるアート思考は、私たちに深く染みつく可能性があると捉えられるのではないでしょうか。

更に、芸術作品とは違い、スポーツにはすでに「良い・悪い」の枠がある点が特徴的です。これをうまく使えば、急に芸術作品を見ることよりもハードルが低いということではないでしょうか。「アート思考のスタート」として、スポーツは位置付けられることができそうです。

 これからの複雑な時代において求められる「アート思考」を鍛える手段として、「アート思考」の先駆者である2人の著者が提案する「芸術作品の鑑賞と創作」に、「スポーツの観戦(みる)と実践(する)」を加えることを提案したいと思います。

 指導者の価値観の押し付けにはならないように注意しながら。

ありがとうございました。

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