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自分にとっての「まち」について:地理歴史

12月24日(土)、25日(日)、27日(火)は図書館で地域学習。

前に、自分にとって「まち」とはどこのことを指すのかという問題を提起したが、その答えに至るヒントを探るべく、自宅から最寄りの図書館で郷土史を読んでみることにした。(最近では郷土史とは言わないのか?)今回は、まず自分の住んでいる地域を知ることから。

どうやら朝来市史というのはまだ無いようだ?市町村合併してから十数年になる。とりあえず、一番身近なところ、「和田山町史」を開いた。

郷土史にはだいたい土地の環境や先史時代〜現代に至る歴史、産業、文化等が百科事典の如く盛り込まれている。

どの部分も面白いのだが、郷土史を読むときに個人的に好むところは、どの時代を読むか、というよりも現代との繋がりを示す記述はどこにあるのかを探求することだ。昔々の土地利用の実態などを現代に見つけるのは楽しい。そのために学問していると言っていいほどだ。僕は今は地域政策論の答えを探すために「価値」や「感情」などをキーワードに考えているが、その礎を築いてくれたのは都市計画だ。

土地や建造物の現状を変更していくにあたり、どの場所をどういう風に変えていくか、それを判断をするための一要素として、歴史や物事の役割などから対象が持つ本質的な価値を解明していくこと、それが僕のかってのエンターテイメント。

普段から、どんなところでも町を訪ねたときは、「ああ、昔はこの道がメインストリートだったんだな」、「ああ、この地域は水害が多かったのかもしれないな」、「ここは何の産業が盛んだったのかな...」など考えながら歩くのだ。それは建築様式や土地利用の方法などを基にする。まさに都市計画が基礎にある。郷土史などの文献を漁りながら、その痕跡を発見したときの快感がたまらない。または見慣れた土地でも実はその昔...といったエピソードがあったりした時なんかはもう。

例えば、

「和田山町史」の交通に目を通すと、朝来市和田山町玉置にある交差点についての記述があった。この交差点は、古代山陰道(京都ー丹波ー但馬ー因幡ー伯耆ー出雲ー石見)と播但街道の交差点で、玉置区で交差している原型は今も昔も変わらないそうだ。どれほど昔かわからないが、古墳時代からだろうか。

これが和田山町玉置の位置。

昔の人は、出雲大社に行くのもこの道を通ったのだろうか。伊勢のおかげ詣りは聞いたことあるけど、庶民が出雲に行くことってあったのか、それについては全く知識がない。いずれにしても山陰を行き来するには、山陰道、播但道のどちらかを通る。それらが交わるこの地に大勢の人が訪れていたのか。鳥取と姫路を結ぶ道や豊岡から福知山方面へ行く道もあったかもしれないがね。

玉置の交差点。これまで数千回通ったけど、改めて見ると何かエネルギーを感じるような...。

山陰道は今の国道9号線に相当する。阪神方と九州を往来する運送屋さんの多くは、瀬戸内海沿いの中国・山陽自動車道ではなく山陰道を利用する。ぱっと見、山陽の方が良いのではないかと思うが、高速料金や交通状況などを考慮すると山陰を走った方が良いらしい。彼らもまたこの玉置の交差点を通っている。しかし、北近畿豊岡自動車道の整備で、ICの終点が和田山から豊岡へ延伸することで、この交差点を往来する車と人の数も減ることになるだろう。

かってこの交差点の一角に「パオパオ」という名前の道の駅があった。名前の由来はモンゴルの家屋のパオ(ゲル)で、この道の駅の形もそれに似ていた。確か内モンゴルと但馬地域が姉妹都市的な交流をしていたと思う。僕が小学生の時、内モンゴルから数人の先生が来て滞在していた記憶がある。それはともかく、この街道交差点の地に道の駅があるということはなかなか面白いことだと思った。偶然か必然かわからないが、街道の交わる地点に道の駅.....。そこも数年前に取り壊され、今はホームセンターになっている。それも北近畿自動車道整備の影響で来訪者が和田山で降りることがなくなったからだろうと言われている。改めて文明の影響力の強さを感じる。


先に、この交差点は古墳時代からあるのだろうかと言ったが、その理由は、近畿ではそんなに珍しいことではないが、この但馬地域にも古墳がたくさんあるからだ。

この地域で最大の古墳が和田山町平野というところにある池田古墳。「和田山町史」によると、規模を推定してみると、墳丘の全長は約141m。墳丘の周りには盾形の周濠がめぐり、その範囲を示すと思われる町道の位置を古墳の主軸方向に測ると、全長170mにもなるそうだ。それがすごいのかどうかわからないが、これが但馬最大の古墳なのだそうだ。この池田古墳は、和田山駅から西約600m、先の玉置の交差点からは直線約1kmのところにある。

他には、北近畿自動車道を春日方面に西進すると、茶すり山古墳がある。これもなんかすごいらしい。あまり調べていない。

それで、この池田古墳や茶すり山古墳は、南但馬を代表する首長墳であると同時に、但馬を統括し得た王の墓だったそうだ。現時点ではそう推定されているのだろう。これらの古墳が造られた五世紀初頭は畿内中枢の傘下に入っていたが、それ以前は、畿内勢力を介さずに大陸と交流があったらしい。なんとまあ都を差し置いて第三者と関係を持つとは、なかなかゲスなことをしよる。


地理と古墳時代の話を見るだけでも、どうやら和田山町という場所がこの但馬の地で何か重要な役割を担っていたという気がしてきた。その要因とは、やはり環境にあるのではないだろうか。自動車も無い時代では専ら地形にかなり影響を受けていたと思うのだ。文化とは、自然で生きて行く上で必要的に然るべき理由をもって築き上げられたものだと思うが、今に至ると自然環境が文化に与える影響力がどれほどのものかは考えものである。


まあ、こうやって都市の成り立ちや文化・文明の名残を探る旅をいかに楽しむかというのを考えたいのだ。その過程の中で自分にとっての「まち」に対する考えも出来上がっていくのだろう。同時に、現在のまちに対する人々のアプローチの仕方をじっくりと観察していきたい。

来年もそういう年になるでしょう。



P.S.

鉄棒が高く、丈夫になりました。運動して体力つけよう!よいお年を。

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