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グローバリゼーションは狩猟型を加速

[要旨]

冨山和彦さんによれば、人的資本が競争上の勝ち負けを決めるような産業構造になっていくと、個人の能力の高低が収入の差につながっていくそうです。すなわち、金融業やIT産業などの知識集約型産業では、同じ会社で働いている同期入社でも、個人能力によって、年収には大きな開きが出てしまいますが、突出した人を大事にしないと、会社全体も競争相手にやられてしまうということです。

[本文]

今回も、前回に引き続き、冨山和彦さんのご著書、「結果を出すリーダーはみな非情である」を読んで、私が気づいたことについて説明したいと思います。前回は、冨山さんによれば、会社にも寿命というものがあり、クリエイティビティを発揮し続けることは難しいと考えているそうですが、かつて先進的な会社と評価されていたソニーは現在はその状態にあり、米Apple社も間もなく革新性が減少していくと考えられるということを説明しました。

これに続いて、冨山さんは、これからは、個人の能力の高低が収入の差につながっていくということについて述べておられます。「経済のグローバル化、あるいは自由主義経済が、国内の所得格差を広げている、という議論があるが、問題の本質を見誤っているのではないだろうか。人的資本が競争上の勝ち負けを決めるような産業構造になっていくと、個人の能力の高低が収入の差につながっていく。典型は金融業やIT産業だが、こうした知識集約型産業では、同じ会社で働いている同期入社でも、個人能力によって、年収には大きな開きが出てしまう。考えてみてほしい。労働集約型産業、あるいは、設備集約型産業では、能力の均質性が求められる。

例えば、大規模な組立工場で働く人を採用するときに、会社側がチェックするのは、処理能力の高さよりも、ある一定水準を超えているかどうかという点だ。能力が一定水準を下回っている、あるいは何らかの致命的な欠点がある人が、工場のラインに立っていると、大量生産の組立作業が滞ってしまう。単純に言うと、作業が一番遅い人に、ベルトコンベアのスピードを合わせなければならない。これでは生産性が落ちてしまう。逆に突出して優秀な人、他の人より飛び抜けて作業スピードの速い人がいても、生産ライン全体の生産性は上がらない。

だから、均質的な能力の人を採用し、新卒の給料は全員同じにする。そしてお互いに助け合い、集団としての品質改善運動、生産性向上運動を進めていく。こうして日本の電機産業や自動車産業は世界を席巻した。これは、日本人が古来からやってきた稲作農業に近い世界だ。田植えや稲刈りを、村人が総出で互いに協力して行う。共同作業の世界では、ここでも最も遅い人が全体の作業ペースを律速する。だから、仕事の速い人が遅い人に手を指し伸べれば、全体の生産性を高める。

ところが、IT業界や投資事業、あるいは弁護士や医者など、高度な専門職でもそうだが、知識集約型産業で一番生産性の高い人は、たとえ新卒でも月収100万円に値する仕事をしてしまう。だからといって、新卒全員の月給を100万円にはできない。そして、そういう突出した人を大事にしないと、会社全体も競争相手にやられてしまう。これは狩猟活動において、先頭で獲物に追いつく人が最も大事なのと同様だ。最も能力のある人間や好調な人間が、集団についていけなくなった人間に関わり煩って、獲物を逃してしまうと、全員が飢えることになってしまう。

アメリカでも西ヨーロッパでも先進国はそういった産業が経済の中心になっているので、必然的に収入の差が人がってしまう。日本の場合はそれに加えて、そこそこ資本装備された労働集約型産業が、新興国に全部シフトしてしまった。典型が電機や自動車といった産業だが、これによって中間層の剥落に拍車がかかった。これは、資本主義とか社会主義といったイデオロギーの問題ではない。グローバリゼーションが進展した結果、産業構造上そうならざるを得ないのだ」(69ページ)

現在は第4次産業革命が起きている経営環境にあり、好むと好まざるとにかかわらず、行動な人材が必要とされることに間違いはなく、冨山さんのご指摘はその通りだと思います。(第4次産業革命については、内閣府のWebPageをご覧ください。)ただし、私は、これと同時に、ドラッカーの、「ポスト資本主義社会は知識社会であると同時に組織社会である:という言葉を思い出しました。これは、ドラッカーが1993年に出版した「ポスト資本主義社会」で述べているものです。

「ポスト資本主義社会は知識社会であると同時に組織社会である。知識人の世界は管理者による均衡がなければ、みなが自分の好きなことをするだけとなり、誰も意味あることは何もしない世界となってしまう。管理者の世界も、知識人による均衡がなければ、官僚主義に陥り、組織人間の無気力な灰色の世界に堕してしまう。知識人には道具としての組織が必要であり、管理者は知識をもって組織の目的を実現するための手段と見る」(354ページ)

ドラッカーのいう知識社会とは知識人の社会のことで、知識人とは専門性の高いスキルや技能を持った人のことです。また、組織社会とは管理者の社会のことで、管理者とはマネジメントスキルを持った人、すなわち専門経営者のことです。すなわち、第4次産業革命によって、専門性の高い人が必要とされる時代になったことは間違いありませんが、それでは、専門性の高い人がいさえすればそれでよいのかというと、そういうわけではないということです。専門性の高い人たちをマネジメントし、組織の目的が達成できるよう管理するスキルを持つ人も必要ということです。

したがって、これからはマネジメントスキルもますます重要になってくるということです。「産業革命」ときくと、技術の進展に目が行きがちですが、事業活動は組織的な活動ですので、最先端の技術、そして、専門性の高い人材をマネジメントできなければ、競争力を維持したり高めたりすることはできません。だからこそ、冨山さんがご指摘しておられるように、中間管理職の方は、調整能力だけでなく、社長の視点に立ったマネジメントスキルを身に付けるための努力を続けなければならないのです。

2024/7/28 No.2783

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