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「ふがいない僕は空を見た」を読んだ

夕焼け、面白くない空を眺めて、また飽きて、ついさっき閉じたばかりのTwitterを開く。トップに出てきたのはカツセマサヒコ氏と窪美澄氏の対談の記事。窪美澄…なんか聞いたことあるような…中高生の頃は女性もの、恋愛ものの小説は好んで読まなかった。だけどカツセ氏が出ているなら、と対談を読んだ。夢中で読んだ。今の私だから、窪氏の本を読もうと思えた。

対談の前編・後編共に読み終えたところで本棚に向かい、本の山をかき分けて奥から「ふがいない僕は空を見た」を取り出した。

今でも覚えている。高校3年生の頃、1年半ほど片想いしていた人に告白した。彼には2年間片想いしている人がいた。それを知りながら告白した私は純粋に人に恋をしていたか、独りよがりの押し付けの恋だったか。彼はちょっと変わった人で、告白の返事を英語の長文で返してくるような人だった。

彼に何と言われて振られたか、もうあまり覚えていない。冷えた空気が流れる混雑した改札口で、ぎくしゃくした笑顔でまたねって手を振って別れたことは覚えているけど。そのあと電車に乗るわけでもなく、ギリギリ持てるくらいの大量の恋愛小説を買ったことは覚えているけど。

その内の1冊がこの本だったから当然すぐ読み始められるわけもなく、こうして本棚の奥に奥に仕舞ってしまったのだった。読むか。久々の小説だった。

余談だが、最近Twitterで「小説を読む機会を減らし、専ら実用書やビジネス書を読む機会が増えて、『無駄なもの』を愛しむ感情が衰退している」というようなツイートを見つけた。本当にその通りだと思った。最近は哲学や心理学、ライトエッセイばかり読んで、何かわかったような気になって、自分のこともわからなくて抱えている問題も何も解決しなくて、心が欠けたピースを探して疲弊しているようだった。去年の暮れに読んだ「明け方の若者たち」以来の小説の再開でもあった。

性欲というやっかいで小さなたまごは、あたしのなかですでに孵化していて、それがたまごっちみたいに成長していくことを、あたしはそのときまだぜんぜんわかっていなかった。​(2035年のオーガズム)

私からすれば幼い松永七菜の、大人びたようで実は年相応のような言葉。初恋の人が忘れられないのは、初体験の人を特別視してしまうのは、きっとわたしのなかのたまごを驚くほどに成長させていくからなのだろう。あぁ、と思った。七菜は、自分のたまごをどうしても斎藤に育ててほしかったんだろうな。だけど目の前に日向さんがいるから、あんなことをしてもらったから、たまごが育っちゃったんだろうな。

「おれは、本当にとんでもないやつだから、それ以外のところでは、とんでもなくいいやつにならないとだめなんだ」(セイタカアワダチソウの空)

明け方、良太の祖母を探しに来た田岡の言葉。罪滅ぼしのための自戒だろうか、良太やあくつを想う本心だろうか。男児に欲情する”オプション”を煩わしく思う田岡は、異常だろうか。世間体では異常なのだろう、犯罪かもしれない。性癖の歪み、と片付けられたらどれだけ楽だろうか。同情になってしまうだろうが、この言葉には涙が出てしまった。

彼自身は何も変わっていない。変わったのは私のほうだ。父親になったのだから、きちんと仕事をしてほしい、そんな正論を大声で振りかざした。(中略)彼の自由な生き方を無責任におもしろがって結婚したくせに、子供が出来た途端、夫や父親としての責任を彼につきつけた。(中略)彼と私と、卓巳と、どう生きたいかを考えもせず、探りもせずに、耳馴染みのいい世間の良識を、焼き印のように彼に押し付けたのだ。
私は、息子から父親を奪って、彼からは人としての無邪気さを奪ったのだ。自分の手で家庭を壊してしまった罪悪感はいつも熾火のように私の心にあって、ときおり風にあおられて、その火は強くなった。
本当に伝えたいことはいつだってほんの少しで、しかも、大声でなくても、言葉でなくても伝わるのだ、と気付いたのは、つい最近のことだ。もっと早く気付いて、それを夫婦関係にも活用できればよかったのだけれど。(上記3つ、花粉・受粉)

助産院を経営するシングルマザーで斎藤卓巳の母の、後悔たち。”趣味や学問を追い求める人”に惹かれて、わたしだけのものにしたくて、側にいてほしいのは恋や独占だったりするだけで、結婚にはつながらないのかもしれない。わからないけれど。だけど恋愛感情をもった人間に対して、これからも一緒にいたいから、結婚しよう、結婚したら、わたしたちの子どもをつくって、幸せに暮らそう、という思想は絶対に間違ってなんかいない。相手を恋人のままにしたいか、配偶者にしたいか、わたしと同じ親という立場にしたいか、世間は正解を求めているようで、曖昧を許さない。生半可な責任と判断を許してくれない。卓巳の母は葛藤したのだろう。葛藤したうえで、今の選択とそれに付随する後悔を負って生きているのだろう。彼女は強くなんかないと思う、抱きしめたくなる。

悪い出来事もなかなか手放せないのならずっと抱えてればいいんですそうすれば、「オセロの駒がひっくり返るように反転するときがきますよ。いつかね。あなたの息子さんが抱えているものも」「これくらいの出来事だと思いなさい。花粉を抱えたミツバチが花に触れたくらいの」(花粉・受粉)

きっとこの本の読者のほとんどがこの言葉を心に留めるだろう、そしてこの本の答えにもなるだろう。漢方薬局のリウ先生の言葉だ。巻末の重松清氏による解説でも取り上げられている。私自身も抱える悩みと照らし合わせて読み込んだ。きっと大丈夫だ、みんなみんな、何もかもうまくいく。根拠とか自信とか、そんなものは必要なくて、みっちゃんがぺしぺしと頬を叩いてちょっと気合を入れ直すように、気分が変えられればいい。いつかオセロの駒がひっくり返るんだ。

「大きな声で泣いたら、赤んぼうたちが驚くからさ」「だいじょうぶだよ。ここなら神さましか聞いていないんだから」(花粉・受粉)

手水舎で体育座りをして俯く卓巳と母の、二人きりのやりとり。忙しなく働き続ける母に迷惑かけまいという気づかいと、父の事と、不倫相手のあんずのことと、幼少期に過ごせなかった家族との時間と、自分の心と体の事と。もうたくさんだったんだろう。高校生だからって、抱えきれなかったんだろう。どこか共感できるような、私には重すぎるような、子供の純粋な悲しみだった。いちばん泣いた。

最愛の母からのだいじょうぶ、が欲しかったんだろうな。



彼らの抱える「やっかいなもの」は、私たちにも数えきれないくらいある。心をすり減らすほどある。だから、いっそのこと全部全部すててしまいたくなる。でも、思い出だったり、脳裏に焼き付いてしまっていたり。そんなものは、抱えていればいい。抱えたまま生き抜けばいい。「いつか、きっと」の光を感じながら、とにかく生きていけば大丈夫なんだ。

〈やっかいなもの〉を捨てられずにいるふがいない僕たちは、でも、その光がまぶたの裏に残っているうちは、人生や世界について少しだけ優しくなれるような気がする。(解説・重松清)

⇧是非読んでみてください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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