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何が私をひとり出版にさせたか

以下の文章は、「版元ドットコム」さんのサイトに掲載していただいものだが、一部、改変してこちらへも掲載する。文中にでてくる「裁判」は結審していることをご報告しておく。

何が私をひとり出版にさせたか

2019年6月19日

那須里山舎 白崎 一裕

 那須里山舎は、まだ、刊行数二点の新米版元である。

それでこのタイトル。私がとても影響をうけている金子文子のあの「自伝」(『何が私をこうさせたかー獄中手記』岩波文庫)のタイトルをもじったものである。20代前半でこの世を去った文子。その文子の、計り知れない漆黒の世界から解放されようとする「疾駆の意志」に、私も感化されてきたからだ。その「こうさせたか」の一端をご披露したい。

 前号のトランスビューさん代行取引お仲間のdZEROさんのエッセイは、ほんとうに身につまされるものだった。まさに「金の切れ目」という言葉が私のこれまでの軌跡をよくあらわしている。それは「金の切れ目」が次の仕事への移行のきっかけとなっていたからだ。
 そもそも、大学なるものを卒業してから、この那須里山舎で7度目の転職である。それも、多様な職種をほぼフリー&自営でわたりあるいてきた。すこしは、まともに勤めたといえるのは、20代前半の小出版社に勤務した3年間のみである。その後、フリーの編集・ライター、受験塾勤務(11か月のみ)、私塾経営、NGO機関誌編集、そして、栃木県北に東京から移住してはじめた障がいのある子どもたちの支援機器(福祉用具)輸入販売の仕事がおもな職歴である。どれも、毎月の資金繰りとの闘いの日々であった。そのことがこの転職の連鎖とつながっているのは間違いない。


 実は、この障がいのある子ども達の支援機器の仕事は25年間もやってきたが、それが突如、大手介護機器会社によって「乗っ取られる」ことになり、まるで、交通事故にあったかのように廃業を余儀なくされたことから、私の「ひとり出版」(正確にはパートナーとのふたり出版)への道がはじまることとなる。この乗っ取りはあまりにも理不尽なものであったため、現在、東京地裁にて損害賠償事件として裁判係争中である。相手は、社員が何千人もいるフランスベッドとならぶ大手の会社で、こちらはひとりだから、まったく力では勝ち目がない。以前、大河ドラマでやっていた「真田丸」の真田幸村と徳川家康の戦(いくさ)のようなものである。私のやっていた障害のある子どもたちの機器の世界というのは、それぞれの障害が個別性・個性があるため「個別制作・適合」が仕事の中心にあり、大量生産・大量販売には、まったく向いていない世界である。ある意味、出版の世界と似ているかもしれないが、従事しているのは中小零細事業者が多い。そのなかで、私も仕事を続けてきたのだが、それなりに売り上げもあり、全国で代理店になってくださる事業者さんも増え、なにより、障害のある子どもたちとその親御さんたちに支えられてここまでやってこられた。自転車操業ではあったが運転資金の借金があっても、なんとか回っていたといえる。その梯子をいきなり外されたわけである。したがって、この一年半の収入はほとんどなくなり、そのあとには借金だけがのこったというわけである。
 おまけに、この乗っ取り騒動のはじめのころに、髄膜炎という病気にかかり、一か月の入院ということまでも重なった。おそらく、アラカンの年齢と過労によるものだろう。


 こんな四面楚歌というか進退窮まるマイナスだらけの状況からの「出版社」という選択だった。この選択には、全く誰も賛成はしなかった。周囲は、「出版なんて、そんな儲からない事業なんて意味がない」という声がほとんどである。しかし、まあ、無類の本好きであることと、そのなかで、読んできた、最近の私よりも若い世代の人たちの出版に対する熱意ある試みが、私の一歩を踏み出す勇気の源泉となった。
夏葉社の島田潤一郎さんの『あしたから出版社』(晶文社)、石橋毅史さんの『まっ直(す)ぐに本を売る』(苦楽堂)、永江朗さんの『小さな出版社のつくり方』(猿江商會)などが、その代表といえるが、ほかにもたくさんある。そして、また、この版元ドットコムのメルマガも、一読者としてメルマガの初期から愛読していたので、その数々のみなさんの声にも励まされた。

 しかし、なぜ、出版なのか。本好きだから出版なのか。もうすこし、そのあたりを自己分析してみよう。 そもそも、私は、高校生の頃に、哲学・思想評論で一生をやっていこうと考えるようになった。私の問題意識の根底には、学歴社会批判と学校批判と受験勉強批判が横たわっていたため、そのことは、私の学問観にも影響を与えることになる。大学の頃には、すでに、人文・社会科学のような人間や社会を考える営みが「研究室」というアカデミズムのなかでのみ行われることに意味があるのだろうか、という問題意識が強くなり、学問批判・科学技術批判ということがそれに重なっていった。そうして、私はいわゆるアカデミズムに依拠しない表現者たちを好んで読むようになったわけである。
 沖仲士の哲学者エリック・ホッファー、ジョージ・オーウェル、田中正造、ヴァルター・ベンヤミン、南方熊楠、シモーヌ・ヴェィユの『重力と恩寵』編集者の農民哲学者ギュスターヴ・ティボン、三浦つとむ、プルードン、ニーチェ、モンテーニュ、そして現在も私淑する思想史家の関曠野さんと、数々のビッグネームが私の師匠となった。
 特に、港湾労働者としての労働生活をおくりながら、著作を発表してきたホッファーには、本当に「クールな生き方」だと憧れる。
 さて、そうなると、ホッファーの沖仲士の仕事にあたる「食い方・生業」の問題がでてくる。「食い方・生業」は何でも良いと言えるが、やはり、なるべく、自分の生き方と沿うようなものが望ましい。組織に属する「就職」だと、なかなかそれが難しいと考えた。そこで、島田さんの本の晶文社さんのシリーズ名にある「就職しないで生きるには」というテーマがでてくるわけだ。この「就職しない生き方・食い方・稼ぎ方」というテーマは、実は、私が20代のころの1980年代から底流にあったテーマである。1975年あたりに高度成長期が頂点をむかえその後のバブル期(高度消費社会)をむかえる日本経済は、実は、その頃が工業化社会の終わりの始まりの起点であったと思われる。工業化社会の生産モデルである大量生産・大量消費的な組織原理が徐々に崩壊する過程の終わりの始まりと言い換えても良い。そんな中で、学校を卒業して企業という組織に勤めるというライフスタイルになじまない感性が生まれてくることとなった。当初は、それは「脱サラ」というような企業的労働からの転換を意味するところから始まったかもしれないが、やがて、最近、よく聞く「小商い」という言葉に到達することとなる。現在のトランスビューさん扱いのお仲間のなかでも『なるべく働きたくない人のお金の話』『しょぼい喫茶店の本』(百万年書房)などが注目を集めている。いわゆる「ミニマリスト」という分類もできるのかもしれないが、私からするとすべてポスト工業化社会への生き方の模索ということになる。全世代に拡大する「ひきこもり」も、「発達障害」と医療分類されてしまう人間関係のコミュニケーションの困難さも、地方への移住志向も、すべてポスト工業化社会の一現象だと思う。


 私がこれまで、歩んできた道もほぼこれに重なる。たとえば、東京で20代後半から30代前半までやっていた私塾は、『子ども支援塾のすすめ』八杉晴実著(太郎次郎社エディタス)を模倣して、学校はみだしっ子(ツッパリくんたち)や不登校の子も、学校優等生の子も普通の子もごちゃまぜでなりたつ、小さな街の私塾だった。
 そして、こんど始めた、那須里山舎もまったくその延長にある。勝手な推測だが、「ひとり出版」ブーム?もやはり、ポスト工業化社会のひとつの表れだと思う。
 ポスト工業化社会の条件のひとつは、組織のダウンサイジングだ。国家も企業も地方自治体もすべての組織が大きくなりすぎると、社会的認識の精度がおちていく。たとえば、労働だが、労働には、労働主体の対象を把握する面(対自然的側面)と、その労働対象が生産したものを他者に承認してもらう面(対社会的側面)があるが、どちらの側面も組織のサイズが大きくなればなるほど、リアルに感じ、把握するのが困難になってくる。この状態は、いわゆる労働疎外といわれるのかもしれないが、現在の労働状況ははるかに深刻で、AIなどの登場によって、労働過程がズタズタに細分化され、ほぼ労働の消滅といってよい時代にはいっている。
 このような労働疎外状況を克服するために身の丈にあった小さいサイズでの働き方が求められていくのは、自然なことのように思える。その身の丈にあった仕事のなかに、「ひとり出版」というのが存在しているのだろう。

 さて、その「出版」だが、私が小出版社にいた80年代前半と基本路線は何もかわっていないところがある。本が売れない、書店さんが大変だ、というのは、確かにその通りだろう。しかし、私が小出版社にいたころから、やはり、本は売れない!活字離れ!ということは話題になっていたし、その後のバブル期も、消費情報としての雑誌文化があっただけで、本質的な変化はないと思われる。ただ、一点、大きな違いがあるとすれば、それは、みなさんが、よくご存じのインターネットの登場ということである。ネットは、軍事技術の応用・副産物であることは、良く知られたことだが、その敵攻撃から自軍の全滅を防ぐための「分散型機能」が工業化社会のあだ花として、ポスト工業化社会を加速させている。
 インターネットは出版に何を与えたのか。


私が、アカデミズムに依拠しない方法論の一つとして愛読している文章があり、それはベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』のなかにある。このエッセイは、芸術作品のアウラ喪失の過程を肯定的にとらえ、近代複製技術の民衆解放可能性について論じたものだが、そのなかの一説となる。
「書籍に関しては数百年にわたり、書き手は少数であるのに対し、読み手はその何千倍もいるという具合になっていた。19世紀の終わり頃、ある変化が生じた。新聞がますます普及し、たえず新しい政治的・宗教的・経済的・職業的・地域的機関が読者に提供されるにしたがい、しだいに多くの読者がーはじめは散発的にー書き手の側に加わっていった。(中略)このことによって、著者と公衆とのあいだの区別は、その原理的な性格を失いつつある。それは機能上の区別、ケースバイケースで違った風に行われる区別になる。読み手はいつでも書き手になることができる。極端に専門化された労働過程においては誰でもが良かれ悪しかれ専門家にーたとえきわめてささいな業務の専門家にすぎないとしてもーならざるをえないので、そうした専門家として執筆層の仲間入りをする道が開けるわけである。労働自体が発言する。そして労働を言葉で表現することは、労働を遂行するのに必要な能力の一部となる(後略)」(『ベンヤミン・コレクション① 近代の意味』ちくま学芸文庫 浅井健二郎編訳より。傍点は引用者)


ここで、ベンヤミンが「労働自体が発言する」と述べていることは、現在のネット社会の肯定的な側面を表したものとして注目される。書き手、編集者、出版社、書店、流通―――すべての分野の境界があいまいになり、それぞれが表現者(書き手)となり、それぞれの場から発信する。すでに、書店が出版事業をおこない、書き手(著者)自身が編集・出版をおこなうという試みがおこなわれている。そして、SNSでは、ベンヤミンの予言は実現して飽和状態になっているといっていいだろう。
課題は、その膨大なそれぞれの場からの発信をどのように受け止めていくか、という課題だ。電脳空間は個々の表現の「承認闘争状態」にあって、どこに承認の確信があるのかもわからなくなっている。これを情報リテラシーという理性的な言葉でおきかえてもうまくいかないだろう。人は、情報をそれぞれの欲望に応じて解釈していくだけであり、その欲望も他者の欲望の模倣(ルネ・ジラール)であったりする。
そこで、重要になるのが「編集」という行為だ。私は「編集」という行為を「総合化と実践化」と定義してきた。編集者は、電脳空間に存在する表現を編集者自身の視座にそって総合化して現実に使えるものにしていく― なんらかの「世界像」を提案していく。そこにこそ「出版」の意義が存在しうるのではないだろうか。


もちろん、編集作業によって作成された「出版物」は、再度、承認のサイクルにのせられ、多くの承認を得たものが「売れた」と評価され、少ない承認しか得ないものを「売れない」と評価されることになる。現在の資本主義の世界では、多くの承認が貨幣に還元され「ひとり出版」にとっても、生業として食っていけるかどうかの問題となり、やはり、冒頭の話題に戻るが「金の切れ目」の話になっていってしまう。おそらくベンヤミンには、労働の発言承認の多寡のことまでは視野にはいっていなかっただろう。しかし、重要なのは、少ない「承認」のものは価値がないということではない!ということだ。それは、単に少ない承認の貨幣還元量が少なかったということにすぎないのだ。

 繰り返しになるが、この「金の切れ目」の問題が7回の転職のなかでの最大の問題のひとつとなってきた。ようするに「金ってなんだ」という話だ。こうして私は、「金ってなんだ」の回答を探して、栃木県北で「ナスタ」という地域通貨をたちあげ、その限界からベーシックインカムにたどりつき、その延長で通貨改革によるお金の仕組みを変える運動が必要だという結論に現在のところなっている。
 那須里山舎の企画の柱のひとつにこの「お金問題」がある。だから、3月の新刊は、『負債の網―お金の闘争史・そしてお金の呪縛から自由になるために』エレン・ブラウン著、早川健治訳というアメリカの通貨改革の基本的分野の翻訳書となった。



通貨改革の本質のひとつに、「資本の徹底的な分散化」ということがある。電脳空間は、情報発信を分散化はしたが、資本は分散化することなく、むしろ、過剰な集中をもたらしている。その「過度な集中」を分散し、少ない「承認」でも、食っていけるようにするのが通貨改革とベーシックインカムの目標のひとつである。
それが実現した時はじめて、ベンヤミンの「労働は発言する」状態が完璧に実現することになるだろう。

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