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自習ファンタジー


8時50分。先生はまだ来なかった。
(今日は急用ができて……。なので……)
 次の瞬間、別の先生がよい知らせを持って入ってくればいいのに。黒く埋め尽くされた教科書よりも、今必要なのは真っ白いノートの方だ。僕は小説を書く。異世界の扉を開く。筋書きを組み立てる。キャラを立ち上げる。会話をつなぐ。想像の赴くままに、時にも倫理にも縛られることなく、自分の書きたいように書いていく。そのために先生は不在であるべきだ。8時50分。先生はまだ顔を見せなかった。

(今日は急な私用ができて……。なので……)次の瞬間には吉報を携えて隣の担任が現る。そんな未来を思いながら、私はノートの中に異世界の扉を開きます。待ち合わせていたのに、冷たい顔のドラゴン。午前中のドラゴンはまだ半分寝ぼけていて、羽ばたくのにも一苦労です。種々の魔物と妖術使いと絡まって、熱い炎を吐き出すのはきっと午後のことになりそうです。ノートを1枚2枚めくったくらいではそれはかなわなくて、もっと長い助走が必要だから、そのためにどうしても必要なのは先生の不在なのでした。8時50分。先生はまだ教室のドアを開けない。

(大人しく自習せよ)
 まもなくそんな指令が出るはずだ。俺は小説家。もう用済みの教科書を引出の奥に詰め込んで、俺はマイノートを机に置いた。銃弾が俺の相棒をかすめて教室の窓に飛んでいく。窓際の男は涼しい顔で消しゴムを回している。二重スパイだ。

「担任が夕べから行方不明」怪しい情報を持ち込んでくるのは、教頭のマスクを被った偽教員だ。何も信じるな。ここに味方はいない。本能の命じるノートの隅々をスパイが駆ける。
消しゴムの中の国家機密。
罫線上の取引を見張る昆虫型のドローン。
上空に持ち込まれた経済マフィアの台本。
折れ線グラフを描く雨上がりの渡り鳥。

 タピオカに株価を交ぜてランドリーに届ける。タクシードライバーから暗号つきクーポンを受け取って鶴を折る。スパイはやたらと忙しい。眠ったり食べたりの猫のように。
「来るな」僕は強く念じる。異世界の扉を開くための長い助走。その時、先生の大きな顔は最大の障害になる。温まり始めたキャラも、広がり始めた筋書きも、力をつけた魔力も、先生の一言によって崩壊してしまう。「おはよう」と先生が口を開けた瞬間、大切に守ってきたすべてが跡形もなく消えてしまう。8時50分。先生の姿はまだそこに見えない。

「来るな」心の中で私は強く叫ばないわけにはいきませんでした。ドラゴンの翼を広げるためには、どうしても先生の不在が必要でした。教えられることではなく、教えられないことによってのみ育つ世界があるからでした。5分や10分の幼い時間ではとてもではなく、少なくともそれは授業一つ分ほどはなくてはならないのです。先生を足止めする理由(それは何だって構わない)先生を絶対的な不在へと導く物語を味方につけて、私は私たちは翼が広がる時間内にできるだけ遠くへと向かわなければならない。

「私たちはもういっぱいだ」それぞれにかなえるべきビジョンが空気を満たしている。8時50分。先生はまだ現れない。

「来るな」詰むや詰まざるや。極限の譜面の中にわしは銀を金を馬を香車を真っ赤に染まった龍を放さねばならない。それには中盤からはみ出した無慈悲な王の演説はいらない。それぞれがまだ何者でもない朝の喧噪こそが、わしの中にまだ見ぬ筋を生み出すんじゃ。わしは詰将棋作家。わしの見立てによってすべての駒は配置される。金銀から歩に至るまで無駄と言える駒は一つとしてない。それがわしのいる世界じゃ。

 無駄のない一枚一枚が王を呼ぶ声によって一つ一つ消えていく。あとには王と将しか残らない。その時に、本当の意味の対話が始まる。それがわしの作る詰将棋じゃ。
「来るな」わしは扇子を大きく広げて、先生という名のちっぽけな王を追い払っている。詰むや詰まぬやわからぬ瀬戸際の中でわしらはみんな勝負を始めたようじゃ。

 転がった4Bは未来を指す香になる。落下した消しゴムは才能を研ぐ桂馬になる。教壇は何じゃ。教科書は何じゃ。筆箱は何じゃ。わしは何じゃ。前から三列目の男子が王の不在を祝福しながら龍を召還したようじゃ。

「来るな!」僕らは合い言葉のように声を揃えた。教わるよりも早く旅立たなければ。向かうべき道を知る私たちは、迷いも障壁も私たちの手で乗り越えなければならない。私たちにとって自習以上に崇高な教室は存在しなかったのです。

8時50分。
「おはようございます!」わるいわるい。
「それでは昨日の続きから……」
 続くのか……。
(来るな。きっとあの声は幻聴だった)
 僕は日常の続きの中で(私たちはそれぞれの本を閉じた。)

おわり

#詩 #小説 #ドラゴン #スパイ

#異世界 #多様性 #迷子 #創作


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