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【もしも現世で、太宰治がnoteを書いたら】


太宰です。


また自殺して、ごめん。



まさか転生した先の世が、こんなにも、自殺を悪とする時代だったなんて、思ってもみなかったのです。私が間違えておりました。すみません。あぁこうして謝っていると死にたくなってくる。あ、また言ってしまった。ほら、これはもう、口癖みたいなものなのです。


私はあの頃、いったい何を考えて、どんな気持ちを抱えて、「生きて」いたのでしょうか。


もしも生まれた時代が、現世“令和“だったなら、もっと、生きてみたくもなったのでしょうか。


***





「太宰が好きな季節は、夏だったという。」


嘘を言いなさい。


書いてある一つ一つの展示に突っ込みを入れながら、私は今、太宰治記念館なるものの中で立ち尽くしている。



やべぇええええ。

こんなにも有名になっていたなんて。


私の服がおもむろに飾られているこの異空間で、なぜこんなことになってしまったのか考える。



2023年6月19日。


未来人は、今日のこの日のことを【桜桃忌】なんて名前をつけて呼んでいるらしい。私の死体が発見された日だそうです。

そう言えば6月になると、来る人来る人さくらんぼを持って墓参りにやってきては、“太宰治”の墓石の彫りの中にさくらんぼを埋め込んでいくのです。

私の墓の前には森鴎外先生の墓があるのですが、しかしなんでか、その墓石にはさくらんぼが埋め込まれるなどのいたずらをされているのを見たことがない。嫌がらせか何かかと思ってきたけれど、どうやら、“太宰治”という、時代によって美化されすぎた私への、この時代の冥福の祈り方のようです。

そもそも太宰治記念館つくるなんて話は、聞いてない。

展示の中には、井伏鱒二宅で撮った結婚の写真や、美知子との結婚の誓約書まで飾られている始末。一体いつ私が許可したというのでしょうか。

それに読み返してみると顔から火が出そうなほどに青い。「私は、あの時の苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思います。浮いた気持ちはございません。貧しくとも、一生大事に努めます。」「僕はこんな男だから出世もできないしお金持ちにもならない。けれども、この家一つは何とかして守っていくつもりだ。」どぅあぁああああああこれは本当に私が書いた手記なのだろうか。穴があったら入りたいしそのまま一生出てきたくない。


美知子とのことだけではない。これは誠に遺憾なのだが、生前、私が芥川先生のことを慕いすぎて、紙の切れ端に芥川龍之介、芥川龍之介、芥川龍之介、芥川龍之介、芥川龍之介、、、と呪文のごとく書き連ねまくった狂気的な黒歴史が、この世ではまるで珍しいものかのようにガラス扉の中に規律正しく並べられているのです、、、それはただの厨二病爆裂メモリアルだろ見れば分かるだろ、、、お願いだから、飾るなよ、、、(落胆)

あぁ、死ぬ前に燃やしておいたらよかった全てのものが今、こうして羞恥の欠片もない形で未来永劫、世に出回ってしまうのだ、、、。


生き返りたくなんかなかった。


こんな不条理、死んでも死にきれません。

芥川先生、、、



***



芥川です。


目覚めたら、令和の世におりました。


執筆とは、〈筆を執る〉と書くにも関わらず、この世で執筆の際に本当に“筆を執っている”人があまりにも少ない。というか、ほぼいない。キーボードをカタカタと叩きながらそれを「執筆」だと云ふ人の、あまりにも多いことの不思議さに、私は目を向けています。


noteなんていうものが、あるらしいのです。概要を聞く分には、手記のことだと捉えております。



「芥川さん、今度【あなたにとって"創作"とは】というお題でコンテストをやるんですけど、お手本の文章を書いてくれませんか。」


朝起きると、そこはおそらく日本の東京のアパートの一角で、突然部屋にやって来た男にそんなことを頼まれたものだから、私もこうして何故か使い方を知っているパソコン、なんてものに向かい「執筆」をしてみているのです。


僕に小説をかけと云ふのかね。
書けるのなら、とうに書いてゐるさ。
が、書けない。


これは、僕が大正五年八月十九日に発表した『創作』という題名をつけた文の冒頭です。


あなたにとって創作とは?
難しいことを聞きますね。

そんなことが容易に判るのならば、こんなにも思慮深くなっていないのです。書けないんですよ。そう簡単に、書けない。創れない。


だいたい今、なぜ私はここにいるのでしょうか。


あぁ、そんな風に思いあぐねていると、ラジオから、私の名前が流れてきたのです。世は、令和のはずだのに。私は、この芥川という名前だけが、有名になりすぎたのでありましょうか。

「芥川龍之介はこう言っていたんだよね。愛とは、性欲の詩的表現であると。好きになっていく意思や、会いたいというものが、知らぬうちにそこになっていくこともあるんですよ。なんにしても、親友がいて、話を聞いてくれて、慰めてくれる人がいるっていう、これが一番幸せなんじゃない?やっぱさ、恋愛関係ってのは移ろうもので、今大好きな人が、5年後、傍にいればいいけれど、別れちゃえばもう赤の他人じゃん。その点親友ってのは、一生モンですからね。親友と呼べる人がいるというだけで、もう人生半分豊かなもんですよ。お前なんてね、30にもなってさ、未だにいろんな男といろんなことがあったって、最終的にそこに、帰る所があるわけだから。」

スナックラジオより




***





memeです。

創作、と聞いて思いつくお2人が、もしこの世を生きていてくれたなら、是非、そんな2人が書くnoteを読んでみたかったなぁ。

そんな思いの下、このnoteを“創作”しました。


noteでは、投稿するという形で、様々な方の目に創作した作品に触れていただけますが、この世界にはたった1人、私がこうして創作を始めるずっと前から、私の書く文章を読み続けてくれている人がいます。


名を、小川礼といいます。

彼女については、いつか、残しておかなければと思っていてので、この機会に、彼女についてを、書いておこうと思います。



***



【小川礼について】


彼女とは、幼少の頃に出会った。



小学校に上がっても同じクラスで、毎日のように顔を合わせるにも関わらず、よく手紙のやりとりや交換日記をした。

中学に上がると礼とはクラスも部活も離れたが、それでも私たちは、飽きることなく交換日記を書き続けた。日記帳は、小学生の時のキャラクターものからA4のキャンパスノートへと変わり、日々、お互いのありのままの、ありったけの日常を、何千文字も書き連ね合った。毎日、毎日。

そしてそれは中学3年間続き、冊数にして、30冊にまで及んだ。

何ページにも渡る悩みごとを書く日もあれば、ポエムか小説だけを書いて渡す日もあった。痛すぎる黒歴史なので、正直言って読み返したいとは思わない。死ぬ前には燃やすつもりだ。

その内容は、HYのNAOの歌詞がいかに自分の恋の状況と類似しているかということについて、高校生になったらいつかBUMP OF CHICKENの車輪の唄のような恋愛をするのだろうかということについて、午前2時に望遠鏡をかついで家を抜け出すような人生に憧れるという話、初めてニキビができてしまった悲しみについて、メイクの研究結果報告、好きな音楽や小説の布教、次回のテストに向けての抱負。ありとあらゆる、中学生の私たちのすべてを書き連ね合っていた。これ以上もう書くことはないというほどに、書いて、書いて、書いて、書いた。

この、多感な中学3年間に書きまくった交換日記こそが、私の文章を書く原点であったことに間違いはない。

今、その香ばしすぎる黒歴史は、15冊ずつ、お互いに分け合って保管している。いつか、羞恥心などの一切が枯れた頃に、縁側でお茶でも飲みながら、お互いの15冊を持ち寄って、読み合い爆笑することが、今ある夢の一つだ。そしてひとしきり読み終わったところで、決して後世に残さないようにして燃やすのだ。

その日までは、決して見たくもなければ、触りたくもないけれど。

今はまだ、恥ずかしさで火傷しそうなほどの熱を帯びているその交換日記には、実家の押入れの奥の奥で、まるで存在しないかのように、静かに息を潜めてもらっている。


燃やしてしまいたいほどの過去。
けれども、あのノートがあったからこそ、こうしてまだ、文章を書き続けているのだということ。


保育園、小学校、中学校と、人生の大半を一緒に過ごしてきた礼が受かった高校は、超進学校の国際教養科だった。

礼は、第一志望に受かった。



【 ことばを発信すること 】


高校に上がると、今のインターネット社会の走りのような、前略、デコログ、リアル、mixi、glee、モバゲー、アメブロなどによる、文化の乱立が起きた。

紙媒体での交換日記時代に幕を閉じ、どこかでまだ「書く」ことへの渇望があった私は、上記全てにアカウントを作り、高校生になってもなお、順調に黒歴史を刻んでいった。

中でも特に力を入れたのがアメーバブログ、略してアメブロだ。

おそらく今のnoteと同じくらいの熱量で、特に大好きだった音楽のことについてを書いていたと思う。中学の頃はたった1人、礼へ向けて文章を書いていたが、インターネットへの投稿に変わったことで、発信先が“全世界“へと拡がった。

主に15歳から18歳の頃の私は、バンドを追っかけながらそのライブレポートを投稿していた。特に地元のライブハウス “CLUB JUNK BOX“ 通称「ジャンク」には、どれだけお世話になったか分からない。まだセカオワがキャパ200人の箱に来ていたような時代だった。500円玉と引き換えに、瓶ビールのキャップによく似たドリンクの引き換えをもらい、スモークの焚かれた狭い箱の中へといざなわれるあの感覚は、何にも変え難い高揚を生んだ。

おそらく、起きた事象をその場の臨場感そのままに伝える手法や、セットリストやMCで喋っていた内容を覚えておいて全て書き起こすという記憶力は、この時に培われ血肉にした。

アンダーグラウンドに染まった挙句、人生の暗黒期時代を過ごし続けてしまったのは否めないが、そんな中でも、何か養われていた力がほんの少しでもあったのだとするならば、やっぱり私はいつだって書く度に、ただ自分自身が、救われていたんだと思う。



【 文章を『粗末』だと言われた日々 】


その後、看護学生となった私は、多忙さゆえにライブからは遠ざかっていっていた。携帯電話からスマートフォンへの時代の流れの中で、アメブロも退会した。

そんな時だった。

研究論文の講義を担当していた仲屋敷先生という教授が「どれどけ成績が良くても優良可のうち“良”しかつけない」と噂が立った。

案の定、出した論文には「poor」とだけ書かれて戻される。交換日記もブログもやめて、書くことへの欲求を持て余していた私は、そこに無駄な闘志を燃やし始め、求められてもいないのに再提出を試みた。他の教授はOKしても、仲屋敷先生だけはそれをNOとする。仲屋敷先生が生徒に求める文章とはなんなのか。私は一度、自分が書きたい文章を捨て、何が仲屋敷的にOKなのかを考えることから始めた。

そこで分かったことは、私には「自分の主張を伝える」論説文や「事実から感じていることを伝える」随筆文ではなく「事実そのものを正確に伝える」説明文を書く力がないということだった。

自分の考えや感覚の一切を折り込まず、ただ事実だけを書く。そういうことが、苦手だということに気が付いた。そして、それは少しだけ、コンプレックスにもなった。

研究論文に即した文章の書き方を、敢えて厳しいと言われ続けた仲屋敷ゼミに志願して入れてもらい、勉強し直した。何を提出しても「poor」の一言で返される日々に、自分への不甲斐なさを感じ苦しくなったりもした。

それから長期休みに入るまで、卒業研究もなかなか上手く進まず、再提出を続けた論文も無かったことにされたかと思っていた矢先だった。学期末最後の日、下駄箱に「お見事」と書かれた論文が突っ込まれていて、成績表には”優”の文字があった。学期末のどんでん返しに、涙が出る程嬉しさは込み上げたが、そこで実際に私の血肉となったのは、研究論文を書く基礎を固められたということだった。そしてそれは実際に臨床現場で働くようになってから、本格的な看護研究の場で、あの時の経験がかなり活きた。

後に、学会発表やクリニカルラダーにおいて、ある一定の評価を受けるたび、あの時書かれた「poor」の一言を思い出す。当時の私の言葉の羅列は、確かに粗末だったのだ。あのままただ、自分の欲求のままに文章を書く書き方しかしていなかったなら、きっと、何も考えることなく、自分の書く言葉に酔うような、そんな人間になっていたかもしれない。あの時それに気づかせてくれてくれたのは、紛れもなく、仲屋敷先生だった。



【 カルチベート 】


仲屋敷先生から「poor」と突きつけられ続ける日々の中で、私が心から救われたのが、太宰治の『正義と微笑』だった。

勉強というものは、いいものだ。
代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。

植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。

勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

太宰治 『正義と微笑』



“真にカルチベートされた人間になれ!”
この言葉が、あの時の私の指針となった。そして思い出した。私は、今この瞬間も、まさに「ゆったりと、真にカルチベートされていっている」人間を1人、知っている。


私の大親友、礼だ。

礼とは、あの後、高校こそ離れたものの、その後もずっと『月1ガスト会』なる会合の場を持ち続けていた。ついに大学進学となると、決して気軽には会えない距離へと離れることになったが、京都の大学とメルボルンやヨーロッパを行き来する礼のことを、私は心から誇りに思っていた。

彼女の口から聞く“世界”の話はいつも、常に楽しかった。

礼が教えてくれた世界と言うのは、決して大層なものなわけではない。外国人との愛し合い方について、外国の夜の街の歩き方、パーティーでの抜け駆けの仕方。それは、私が一生かけても経験し得ないようなことばかりだったから、礼を通して知る世界が沢山あった。それがとても、楽しかった。私の分身が、礼の胸ポケットに入っていて、一緒に海外で暮らしているような、いつも、そんな気分にさせてくれた。パブやクラブに初めて連れて行ってくれたのも礼だった。8年前の日本で、タバコの一本も吸わない私をシーシャバーに連れて行くような友達も、礼くらいだった。

日本に戻ってくるほんの少しの時間で、あの交換日記の続きのような会話を、更新し続けた。

ただ、楽しかった。


大学を卒業してからも、礼は大学院に進学して、就活だ結婚だとそれぞれの「道」を進む周りのことは気にせずに、自分の道を、ただ、ゆったりと、歩いていた。


それでいて本当に語学は堪能で、英文学をたくさん読んでいて、なぜだか昔から日本のお寺に詳しくて、真に、カルチベートされ続けているように見えた。



この間、フランスの地で、愛する旦那さんとの子供を産んで、実親の助けも借りずに半年間赤ちゃんを育てた強く逞しい礼は、更に母の強さを携えて、赤ちゃんと一緒に一時帰国した。

1人でも辛い16時間のフライトを、赤ちゃんとともにやってくる、それだけで、ものすごく、立派だった。到底真似の出来ることではない。

短い帰国だったけれど、束の間の再会に、心からの安らぎと幸せを感じた。


フランスへと戻る日、羽田空港まで、お見送りに行った。

礼の到着を待つ間、展望デッキで、飛行機が離着陸するのを眺めながら、ラジオを聞いていた。


親友と呼べる人がいるというだけで、もう人生半分豊かなもんなんですよ。


聞き慣れた声で、リリーさんがそんな話をするものだから、あの黒歴史A4キャンパスノートも、時と共に、少しずつ、ふたりの歴史に変わっていっているような、そんな気がした。

あの交換日記から出た一つかみの砂金も、仲屋敷先生への論文の再提出の山から出た一つかみの砂金も、ライブキッズだった頃に書き殴り続けていたアメブロから出た一つかみの砂金も、わたしにとって、どんなものにだって変え難い、唯一無二の大切さを含んでいるのだと思う。



2023年6月19日。

今日は、桜桃忌だ。

太宰治の死体が発見された日でもあるけれど、不思議なことに、今日は、太宰治の誕生日でもある。死体を見るに、もっと前に死んでいたはずだという見解が濃厚なようだが、発見されたのは、彼がこの世に生を受けた日だと言う。

死があるということは、必ず、生まれたという事実もあるということ。

生まれたということは、必ず、生きた事実も、あるということ。

現世にその事実がこんなにもたくさん残っていて、こうして手に取ることができる幸運を、嬉しく、楽しく、そして少しだけ恥ずかしく思います。


誰もがもっている青春の黒歴史を、記念館に飾られる滑稽さが、時代を超えても、不憫で、少し、笑ってしまうから。


生まれてきてくれて、ありがとう、先生。




白のカーネーション 花言葉 尊敬




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。