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「文化」と「自立」 ―“ゴミ拾い”と“ポイ捨て”―

(令和4年12月28日に「不動産経済Focus&Research」で発表した論考を公開します。写真はカタールW杯で敗戦後も清掃活動を行う日本人サポーター、『サッカーダイジェストWEB』12/27より。)

“ゴミ拾い”と“ポイ捨て”


 サッカーW杯で日本の躍進が話題になったが、それとともに世界中から賞賛の的となったのは日本人サポーターたちの“ゴミ拾い”であった。これを多くの有識者(コメンテーター)は、日本人の美意識の表れと持ち上げ、日本の伝統的な「文化」なのだと自賛した。
 
 でも、私はこうした言説に著しい違和を覚える。なぜなら、我が国の象徴たる霊峰、富士山は“ゴミだらけ”で、その清掃活動に尽力するアルピニストの野口健氏は、登山者たちの悪意の詰まった「尿入りペットボトル」が大量に捨てられている惨状に「富士山の闇は日本の病み」と嘆いている(11/24 産経新聞)。
 
 また、我が国の繁華街ではもれなくゴミが散乱しており、私の居る京都では、観光客で溢れる嵐山や鴨川での“ポイ捨て”が悪化する一方であり、それに業を煮やした鴨川の地元は監視カメラの設置を決める始末である (12/16 京都新聞)。
 
 つまり、我が国民が“まち”を美しくする「文化」を身にまとっているとする説では、この野放図な“ポイ捨て”で汚れた繁華街や観光地の有り様についての説明がつかず、矛盾が生じるだけなのだ。

退嬰(たいえい)する「文化」


 そもそも「文化」とは何か。これを「文明」と対比すると定義しやすい。まず、「文明」とは普遍的で合理的な、多くは物質的なもので、その代表は生活利便を促すインフラ(社会資本)で あろう。これに対して「文化」とは、その民族や地域に特有の不合理な、その人心を安定させる精神的なものであり、たとえば道徳や信仰がそれに当たるだろう。
 
 江戸時代はゴミや糞尿に至るまで、あらゆる 不用品を買い取る業者が存在して徹底的にリサイクルするエコな「文明」が貫徹し、また、“お上”の御威光の下、中世来の禅宗の影響もあって、掃除の不十分な世帯は周囲から非難さ れる「文化」が行き届いていた。このため幕末に訪日した外国人は“まち”に「ゴミ一つ落ちて いない」と一様に驚嘆した。さすれば、明治維新による「文明開化」を経て“まち”はさらに奇麗になったのかといえば違った。維新の動乱 や人口減で回収業者がいなくなって“まち”にゴミが溢れ、欧米に倣って設けた下水道は浄水処理が不十分で、ゴミや糞尿がそのまま川 に垂れ流されるため、かえって汚染が進み感染症も蔓延した。
 
 当時を福澤諭吉は「 古(いにしえ)の政府は民の力を挫(くじ)き、今の政府はその心を奪う。古の政府は民の外を犯し、今の政府はその内を制す」と評した。江戸幕府という“お上”を恐れて“まち”の 美化に努めていた人びとは、社会資本という「文明」を整備する新政府にはただ依存するばかりで、自ら“まち”を奇麗にする「文化」は退嬰した、ということだろう。
 
 いま復刻版が売られている戦前の小学生向け『国民礼法』では「公衆に対する心得」として公共の場所でゴミを捨てて汚さぬよう諭すが、明治後期から浄水場が整備されると感染症は収まったものの、川にはゴミが流れ、道で は“ポイ捨て”どころか、痰吐きや立小便も横 行したのであった。


遠ざかる「自立」

 
 戦後、GHQ は我が国が二度と西欧に歯向かえぬよう、国民が共有していた太古から繋がる価値観を葬るため、戦前の“まち”を美化すべしという外側からの制約を含む道徳まで取り払ったので、我が国民の「無拘束」を促した。 そして、それを埋めるべき精神、つまり「文化」 は人びとの内側からは育まれなかった。なぜなら戦後憲法を頂点とする法秩序は、個人の権利や自由を偏重することで、礼節や美徳を欠 いた自己中心的な人間を養成したからだ。  
 結局、我が国の“まち”が奇麗になっていくのは 1964 年の東京オリンピック開催を契機に、 政府が公共サービスとしてのゴミ回収を積極化し、美化キャンペーンを張って風紀紊乱を厳しく取り締まってからのことであり、この「文明」の充実により明治以来やっと改善されたのだ。
 
 おそらく我が国民は、公共を「ソト」として「ウチ」 と関係のない他人事と切り捨ててしまい、それ は「文化」の影響というより、その欠如に根差す のではないだろうか。現代の学校教育では「個性を伸ばす」などと“奇麗ごと”を掲げても、予め決まっている (正答か否か判然とせぬ)回答しか許さぬ試験を課し、集団生活における画一的行動を強制し、将来的に社会の「従僕」となることを促しているように映る。その好例は学校の掃除で、外国と異なり清掃会社を雇わずに生徒自身での共同作業を強いるが、それは美化という道徳を植え付けるというよりも、ただ集団に靡(なび)くことを促しているようだ。よって、集団が“ゴミ拾い” をしていれば躊躇なくそれに倣(な ら)い、ゴミが散乱していれば他人も捨てているのだからと平然と “ポイ捨て”を敢行する。最近ではマスクの“ポイ捨て”が目立つようだが、人びとはマスクも社会の防疫性を考えるからでなく、ただ集団と同じ行動をとるために装着している方がほとんどではないのか。
 
 要するに人びとは社会の顔色を窺(うかが)い、それに合わせて流されるのみで、自らの頭で考えることを放棄している。それは、人びとが社会を自らが関わるべきでない「ソト」と扱うことを促し、 内発的に社会の「文化」を創造する契機を阻むのだ。そして、戦後憲法は「自由」を過剰に保護することで人びとの社会をつくる「自立」を脅かすどころか、前文に「他国を頼れ」といった 文言を並べることで国家の独立までをも危うくしているのだ。

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