見出し画像

虐待や不登校や不眠症や薬物依存の子供がプロ占い師の幸せな男になるまでの話(仮) #8

自分を騙し騙しなんとか学校に通っていたのも、中一の夏休みを終えた頃から不可能になっていた
小学校で基礎の勉強をしていない自分には中学の授業は理解ができないため
ただ机に伏して眠るしかない、そして何より嫌だったのは「学校が楽しい」と感じる普通の、凡庸な生徒達の無神経な質問だった
「なんで学校に来ないの?」
今の俺なら摩擦を恐れずこう言える「お前らの事が大嫌いだからだ」と
だが思春期で、さらに問題行動を控えようと努力していたためそれが裏目に出て、何も本心が言えなかった
あざとく、わざとらしく、汚らしく、小賢しく、下品で幼稚な同級生と会話をする気にはならなかった
何をしても小さな事でも嘲笑や噂になる
部活の時に履く体操着も嫌だった、短パンの丈が短すぎる、トランクスがはみ出ている生徒までいる始末だった
現在の過度のポリコレ、ジェンダー問題ほどではないが
思春期ならばこその配慮もしない、第二次大戦後にできた日本の軍隊式の“学校”という仕組み自体が俺には合わなかった。

正直この頃の家庭での記憶はあまりない、あの父の一件以降、家でも父と話す事は減っていた
あちらから話しかけてくる時には心に分厚いフィルターをかけていた感覚がある
母はヒステリックに忙しそうに別居の準備を進めながら、結婚前に修得した看護師の仕事を探し
俺の同級生のママ友にパソコンのEメールで被害者ぶった内容の文章を送っていた記憶がある。

いよいよ別居の直前となった時、今回の別居と離婚についてで俺がごねた事があった
俺が唯一大事に思う愛犬を父の元に置いて引っ越すと言うのだ
それだけは嫌だ、と
冷蔵庫を拳で殴りつけ、大きなへこみを二か所ほど作った
その頃には俺にとって父と言う存在は「親戚のおじさん」程度ほどの扱いにまで下がっていた
そして学校に行けない、弱者、被害者である事が板についてしまっていた俺は
後輩に貸したゲームソフトを返してもらう時にすら「ありがとう」と小声で言ってしまうほど自信を喪失していた。

中学二年生になった、一部の家具を残して全て持っていき、新築のマンションの五階に住み始めた
なにより驚いたのは梅雨入り前でもエアコンの要る暑さを感じない、窓を開けて網戸にしていれば自然と風通しがよく涼しいのだ
そして蚊もいない、清潔で、ピカピカしていて、まるで“普通の家”の住人になれてとても嬉しかった
そして初めて“自分だけの部屋”をあてがわれた事が何より嬉しかった
ベランダ側の大きな窓たちから吹き込む風を使って、自室の窓際のカウンターに座って煙を外に逃がしながら
メンソールタバコを吸った時の心身の清涼感は今まで経験した事が無いほど気持ちが良かった、これが自由か、そう思った。

だがここからが本当の苦痛、最低の中学生活の始まりだった
母は父と離婚すれば何もかも上手く行くと言う妄想に囚われていた
「あんたが夜眠れないのは親父がまた夜にやってくるかもしれないからだと思っとったのに」
そう言われた、違う、学校がクソ過ぎるから行きたくないんだ、父は俺としても体の良い言い訳だ
そして母もそうだろう“息子が夫に虐待されるから”
そうやって俺をダシに使えば離婚のきっかけになったからで、貴女もただ前々からあの生活が嫌だったんだろう?
そう思う。

母は以前よりさらに酷くヒステリックになっていった、学校に行かない俺に対しての扱いは犬以下だった
リビングに居れば何かしらの中傷を受けたため自室に引きこもった
母と顔を合わせたくない、学校にも行きたくない、その思いが重なり夜に眠ることができなくなった
ベッドに入るまではできる、だが眠ってしまえば明日が来る
学校に行きたくないのに行くか、行きたくないから行けないか、そのどちらかしか無い
眠るのが怖い、けれど眠りたい
目は一重まぶたで、常に酷いくまが出来ていた
俺と対話をする気も無い母親は部屋に日光が射しこむようにレースの薄いカーテンしか取りつけなかった
ますます不眠症は悪化していった
朝4時を越えると眩しくて眠れず、かと言って母の起きる6時くらいまでは起きていたくない
布団をかぶって視界を暗くうつ伏せに、ベット端のすき間から酸素を吸い込み無理やりに眠った

夕方に起きていけば、母に「夕飯時に起きてきやがって、いやしい奴め」と言われ
自身も離婚前までヘビースモーカーだったくせに、弟も巻き込んで家族全員で「臭い」と言われ
家族で外出する時に車に乗った時になどは「あんたは家族の癌なんよ」と怒鳴られた

俺は毎日、阿鼻地獄にでも居るような気持ちだった
寝ても覚めても、自分が学校に行けないのは、自分がダメなのは
アイツらの、学校の奴らさえ居なければ?俺が悪い?親父が悪い?
毎日夜10時から朝4時までの6時間考え続けた
それでも答えは出なかった
これは誰かが悪いどうこうの話ではないかもしれない、けどアイツらが、いや、俺が悪い、いや親父が悪い
真っ暗な自室で、布団にくるまって、いやそれは布団なんかではない、針の筵だ
無限かと思うほどの時間を過ごした、そしてここまで悩み、苦しんでいる現在の自分の思考回路を
絶対に忘れてはいけない!風化なんかしたくない!と心の中で夜ごとに絶叫した

母は朝食も昼食を作らなかったために心身ともに憔悴し常に呼吸の合間にため息をついていた
菓子パンとカップ麺が大半の食事だった
中学二年生で体重は30キロと少しほどしかなかった

そのうち「ただいま」や「おかえり」や「おやすみ」と言う言葉自体が俺の生活の中から消えていった
他の家族はお互いにおかえりを言い合っている
だが俺が「おかえり」と言っても、母も次男も三男も「ただいま」と言ってくれた事は一度も無い
「ただいま」と言っても誰一人「おかえり」と言ってくれた記憶もない
「おやすみ」も「いただきます」も

俺は居ない、俺はこの世に居ない人間になった
寂しかった、常に胸元にある重苦しい孤独以外、何も感じなくなっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?