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原作を読んで黒澤の凄さが分かった~『羅生門』

日本映画史の金字塔、というフレーズはもはや死語であろうか。
仮にこのフレーズを使うことがあるとすれば、それはこの映画について語る時をおいて他はないだろう。黒澤明監督の『羅生門』である。

原作は言わずと知れた、芥川龍之介の短編「藪の中」

映画を観た後に読んだからだろうか。実に戯曲的で意欲的な作品だと感じた。だからこそ、本作を脚本に仕立てて映画にしようとしたのだろう。

小説では、目撃者と当事者が順に証言していくが、最後に刺殺された被害者までが巫女の口を借りてまで証言をするところで締めくくられ、それまでの証言と同様に本人の口から喋られた内容もどこまで真実なものか、という疑いを読者に起こさせることがオチとなっている。

これはこれで、面白い
のだが、映画を観てしまったあとでは、やはり物足りなくも思う

映画『羅生門』は、(wikiによると)「藪の中」だけでは短かったため「羅生門」の一部を付け足したとのこと。

「藪の中」も「羅生門」も、
世に言われる真実とか倫理とかは、絶対不変ではなく他者とのかかわりの中で見え方が変わり得る相対的なものだということを、シニカルに描いているという点で共通している。

人間の実相を描いているからこそ、特に「羅生門」の方はあまり後味がよくない。人間の醜さや狡さを、もはや笑えないウィットで描いているのだが、これは芥川のその後を知っている我々からすれば、さもありなんという感じだろう。

黒澤はこのどうにも救われない二つの話を組み合わせて、逆に人間性に救いを持たせる、という演出にした。

『羅生門』で黒澤は、次々と登場する人物の言葉に対し僧侶に”この世は地獄、疑いばかり”と言わせる。この僧侶はまさに映画を観る者の視点だ。
しかしその後、黒澤は「藪の中」にも「羅生門」にもない杣売りの言葉を持ってきた。最後の最後に人間を信じられるという言葉を。これは黒澤オリジナルの結末である。

もちろん、その杣売りの言葉でさえも偽りかもしれない。
映画の中ではきっと僧侶は杣売りを信じたのだろう。それは背景に広がる雨上がりの空が物語っている。
だが『羅生門』はその僧侶の視点で終わるもよし、やはり人間は信じられぬと穿って見るもよし。その両義性こそ名作たらしめている点なのだろう。

映画がよい、原作がよいという論争はよくあるが、互いを引き立たせるという作品はなかなかないと思った。間違いなく傑作である。

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