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「王様と私」と「花とみつばち」

近年では、本場のブロードウェイで渡辺謙が王様役として出演したことでも話題になった、この作品。最初の映画の作品を、今回視聴した。
時代背景は、19世紀半ば。シャム、今のタイ王国にも近代化の波が迫ってきていた時代だ。

この映画を観て、最も強く感じたことは、思っていた以上に西欧主義的な作品だということだ。
タイが近代化を目指そうとしていたのは事実なのかもしれない(私は不勉強のため知らないが)。そうであっても結局は西欧の価値観が正義であり、タイの伝統や価値観は恥ずべきもの、遅れているものという描かれ方がほとんどだった。この映画が上映された1950年代くらいにはそういう見方がまだ一般的だったということの証左なのか。現代も舞台で演じられているこの作品、これをこのままやって何も言われないのか心配になるところだが、wikiによればタイでは上映禁止だそうで、そりゃそうだと納得。

もう一つ最後の方で、男女の関係について西欧とタイとで考え方が異なる、という場面がある。そこで王様が持ち出したたとえが、男はミツバチで女は花、というもの。
花は一匹のミツバチに蜜を差し出し、ミツバチは多くの花から蜜を吸って回るものだ、とのこと。これで思い出したのが、この歌謡曲。
郷ひろみ「花とみつばち」

初期の郷ひろみの楽曲の中では、これが一番好きである。まだあどけなさの残るひろみ。このときまだ18歳。なんてかわいらしいのでしょう。
と思いきや、その歌詞は思っていた以上に赤裸々なのだ。

どうでもいいけど 帰るのいるの 夜明けだよ
まぶしいのは はだかの胸さ
どうでもいいけど そばへおいでよ 今夜まで
覚えておこう 赤いくちびる
君と僕の二人が おぼえたての蜜の味
指をかたくからませ 背中に口づけ
僕たち二人は 春咲く花とみつばちさ
肩の上に 止まっていたい

18歳のひろみも、すでに蜜の味を知っていたのだろうか、そう下衆の勘繰りをしたくなってしまうが、そのような言説はあまり聞いたことがないので、その下品さを浄化させるほどのフェアリー感をまとっていたということなのだろう。

しかし、先の「王様と私」のたとえと結びつけると、結局この歌の中のの男の子もみつばちのごとく、他の花を求めていってしまうということになるわけで、歌うひろみを見て黄色い歓声を上げていた少女たちからすれば、大いなる幻滅を味わうことになるにちがいない。
そこまで計算ずくとするならば、作詞の岩谷時子も人が悪い。

ちなみに、上の映像もいいが、1974年の紅白歌合戦にて、バックに西城秀樹と野口五郎を従えて披露した際のこちらの映像もよい(1:30頃から)。

それにしてもすごい衣装である。

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