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起承転結ではない演出なのか~「翔んだカップル」

フランス、アメリカと、1980年前後の少年少女を取り上げた作品を観てきたので、今回は日本モノを。
1980年公開の「翔んだカップル」

この当時の邦画独特の陰鬱さに全編覆われている作品。
特に暗い出来事が起きているわけではないのだが暗い。作品全体を覆っている空気が静かで、どこか湿っている。

そもそも映画はせいぜい2時間程度であるから、作中で進行する時間のすべてを描き切るなんて土台無理なこと。
特に人と人との関係なんかは、大きいことも小さいこともひっくるめて長い時間をかけて形作られていくものだから、それを2時間足らずの映画でどう描くか。映画監督たちはこの問題と格闘してきているわけである。

有りがちなのは、ドラマチックな事件を起こしすべての理由をそれに起因させてしまうこと。これは見ている側も分かりやすい。「ああ、あれがあったからこうなるのね」と。

でも本作の相米監督はそうはしていない。
徐々に形作られていく過程のいくつかの点を拾い上げていて、その空気感の変化をかもしだそうとしているのではないだろうか。
登場人物の心情の移り変わりや距離感といった、すぐには変わらないものをその時々の断面として切り取って見せているようだ。
これだと明快な因果関係や起承転結がぼやけてしまうのだが、作品全体を包む雰囲気は統一されるという効果があるのだと思う。

これは相米監督にかぎったことではないだろうし、いまでもこの手の映画の系譜は続いている。
しかし当時売り出し始めたばかりの薬師丸ひろ子を起用した、多くの人が「アイドル映画」と捉えてもおかしくない映画でこのような演出を施すことが、彼のセンスなのだろう。

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