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認めてもらいたい欲求が世界を動かしている~「アイデンティティ」

21世紀になってもう20年が経つ。
科学技術の発達、経済の発展のおかげで、生活はずいぶん豊かになった。
娯楽も満ち溢れていて、心地よくも刺激的な毎日。
なのに一層、渇いている。日本だけでなく、世界中。
この得も言われぬ閉塞感を見事に言語化し、理解せしめてくれる著書。
フランシス・フクヤマ「アイデンティティ」だ。

ここで言うところの”アイデンティティ”とは、”承認欲求”と言いかえると理解しやすいと思う。つまり物質の多寡ではない。自分が、自分の属するコミュニティが、他者から認めてもらえるかどうかなのだ。

貧困の痛みは、尊厳の喪失として実感されることのほうが多い。(アダム・)スミスが言うように、貧困によって「世間から無視され」、そのせいでほかの人たちから思いやってもらえないのである。

この”アイデンティティ”を視点の軸に置くと社会の対立構造が次第に違ってきていることに気づく。20世紀初頭では資本家と労働者であったが、今の対立はより細分化されている。

ロシアや中国のような巨大な国家であろうが、アメリカやイギリスの有権者たちであろうが、彼らは自分たちの集団のアイデンティティが十分に承認されていないと感じている。国の場合は外の世界から、それ以外は同じ社会のほかのメンバーから。それらのアイデンティティは、国家、宗教、民族、性的指向、ジェンダーに基づいており、信じられないほど多様でありえて、現に多様である。これら世界各地での動きはみな、共通の現象である「アイデンティティの政治」の現れにほかならない。

細分化されたアイデンティティはなかなか厄介である。
一つ解決したと思ったらまた次のコミュニティが声をあげる。その繰り返し。もはや思考停止寸前である。

人間にとってメガロサミアと同様に強力な動機となるのが、ほかのみんなと「同等」とみなされたい気持ち、「アイソサミア」である。メガロサミアは、経済学者ロバート・フランクの言う「地位財」だ。地位財はその性質からして、ほかと共有できない。ほかの人との関係のなかでその人が占める地位に基づいたものだからである。近代民主主義台頭の物語は、アイソサミアがメガロサミアに取って代わる物語だといえる。少数のエリートだけを承認する社会が、だれもが生まれながらにして平等だと認める社会に変わったのである。

とはいえ、このアイデンティティ中心の力学は止められないだろう。
それでも著者は最後まで一定の良識を求める。

アイデンティティは、立憲主義、法の支配、人間の平等といった中身のある理念と結びついていなければならないのである。

読んでいて感じたのは、このアイデンティティの考え方は大きな視点だけでなく、身近なコミュニティや会社内のことでも通ずるということだ。
どうすれば所属メンバー全員が生き生きと前向きになれるか。人材育成という観点で、エンゲージメントというワードが注目されてきているが、根底にあることは本書に近い点もあるのではないかだろうか。

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