【小説】僕のファルマス滞在記:第三章
第三章:はじめてのおつかい
一、
セメトリーに入ると、「彼ら」の姿は僕の目により鮮明に映ってきた。塀の外からは青白い影が無数にうごめいているようにしか見えなかったため、恐ろしいと感じるよりほかなかった。しかし、近くでまじまじと観察してみると、輪郭が透けているという点を除けば、各人が人間と違いない容貌をしていることが分かった。目の周りが黒いとか髪がやたらに長いとか、流血しているとかいった、ホラー映画で描写される姿とはかけ離れたものだった。服だってちゃんと着ていた。そう、彼らはれっきとした「元・人間」だったのだ。
何となく、千葉県の某テーマパークにあるお化け屋敷で、幽霊たちが毎夜のごとく盛大な宴に勤しんでいるのによく似ている気がした。だが、それを見ていて、まさか彼らが、例の某アトラクションと同じく何番目かの仲間入りを待ち侘びていて、それで僕を捕まえようとしていたのでは、という恐怖が一瞬生まれてきたことは否めない。思わず、セメトリーに入ってから隣にぴったりと付いていたあの女の霊のほうを見やってしまった。すると、さすがは幽霊、僕の考えなんてとっくに見透かしていたのか、「いいえ」と真顔で首を横に振った。
「別に、あなたに幽霊として仲間入りさせよう、ということではないのよ」と女の霊。
「だって、あなたまだ棺も墓石もないじゃない。」
なるほど、納得である。棺も墓石も持っていない者、つまり生きている者には本格的な参加資格はないと決められているらしかった。また、この「死んでいなければ幽霊の仲間入りはできない」という基本的なルールに加えて、セメトリーの外に出ること禁止、特に道路を渡ってほかのセメトリーに行くこと厳禁(左右をちゃんと確認しないまま道に飛び出し、ドライバーを恐怖に陥れた「事件」が何度か発生したため)など、彼らなりの縛りも設けていることも教えてくれた。なかなか奇特なルールではないか。幽霊だって学ぶのだ。
ということは、あの夜慌ててカーテンを閉めたり、「奴らがフラットまで追い掛けてくるのでは」などと大騒ぎしたりする必要はそもそも不要だったということだ。何だか「半人前」と言われているような気もしたけれど、とにかく、これでようやっと命を失う心配から解放されることができた。でも、それならどうして彼らは、一度失敗してまで、自分たちの中に僕を誘い入れようとしたのだろうか。
再び、僕が尋ねるより先に解説が始まった。
「だって、退屈なんだもの。」
彼女によると、このファルマス・ジェネラル・セメトリーは約二万八千人が埋葬される、大規模な墓地なのだそうだ。ジェネラル・セメトリーには大きく分けて三つの区画が設けられており、市街地からの道の右側にある二つが古いもの、僕たちがいた左側の一区画が比較的新しいものなのだという。
そして、夜になると各区画の墓石からその持ち主たちが「起き出して」きて、所属する区画内に限り、好きなように動き回ることができるのだそうだ。そのため夜間になると大変賑やかになるのだが、その顔触れも毎日目にしていればマンネリ感が出てきて、フレッシュな話題も枯渇してくる。それに飽きてしまって持ち場から出てこなくなる者も少なくはないものの、大方は新入りの加入を首を伸ばして(ただし英国なのでろくろ首はいない)心待ちにしているのだそうだ。井戸端会議で新参者を待ち構える町内会の幽霊版というわけである。
「それでね、ここの皆で『ああ、誰か面白い人が入って来ないかしら』なんて言っていたら、偶然あなたが通り掛かってね。この辺りじゃ見ない顔立ちだったから、まだ死人じゃないにしても、楽しい話を聞かせてくれるに違いないって思ったの。」
「だからぜひとも招き入れようと思ったのに、あなた、無茶苦茶に叫んで逃げてしまったでしょう。ああ、おかしいっていったらなかったわ。皆で、死ぬ前でさえ経験したことないってくらい笑ったのよ。」
いや、彼らが僕たち生身の人間が思うよりいくら無害な存在であろうとも、あんな登場の仕方をされたら誰でも泣いて逃げると思うのだが。それなのに、それを爆笑しながら見ていただなんて。いくら幽霊でもそれはむご過ぎる。
「でもね、今夜あなたがここにちゃんと来てくれて嬉しいわ。だって、あの後あなたがここを通ることは絶対にないだろうと皆思ったんだもの。」
「それはあなたたちが誘き寄せたからでは」という言葉が喉元まで出掛かったが、実際に口に出すのはやめにした。言わなくたって察せられてしまうだろうと分かっていたたからだ。
「さあ、それはどうかしらねえ」と、女の幽霊は眉を上げてみせた。「車の修理工だった人ならいるけれど、土砂崩れまで操ることはできないわ。」そう言って彼女は咳払いを一つした。
「とにかくあなた、自己紹介して頂戴な。皆、あなたがどんな人で、ファルマスなんかまでどうして来たのかずっと勘繰っていたのよ。」
彼女の咳払いの真意が気になったところだが、なるほど、墓地のあちこちから詮索好きそうな視線が僕に集中していた。中には僕が話し出す前から、「中国人か?」はありがちだとして、「それにしても背が低いな」などと聞き捨てならない野次を飛ばしている者もいた。
そこで、今度は僕が咳払いをして、幽霊たちを相手に自己紹介を始めることにした。が、どのくらいの声量で話してやったら良いものか気になり始めた。無数の幽霊たちに聞こえるように話す必要があったため、かなり大きな声を出さなければならないとは分かっていた。だが、アジア人の男が墓場で一人、大声で名乗りを上げているのを通り掛かりの人間にでも聞かれたら、どうだろうか。今度こそ警察を呼ばれてしまうかもしれない。
さっきの女の霊は僕を少し離れたところから見守っていたが、僕がまごつくのを見て同じことを察したらしい。僕に目配せを一つして、「ねえ、もう少し彼の近くに集まってあげられるかしら」と呼び掛けてくれた。
「Roger」「Okay, Miss」などと口々に言いながら、幽霊たちが僕の周りにぞろぞろと集まってきた。これほど大人数の幽霊に囲まれるなんて、生涯でそうそう起こらないだろう(というか、普通はない。絶対にない)。非常に壮観な眺めだった。
僕は命を持たぬ観客たちに向かい、自分の名前と年齢、小説を書くためにファルマスまでやってきたことなどを英語で話した。途中で「英語で喋れ!」というお叱りなのかふざけているのか分からない怒号が飛んだが、大体は僕の話した内容を理解してくれたようだった。良かった。英語で自己紹介するなんて学生時代ぶりのことだったので、僕は調子に乗って、聞かれてもいないのに「僕の故郷も港町なので、ファルマスには親近感を抱く」などというおべんちゃらまで喋った。あまり受けなかった。
でも、一礼して自己紹介を締め括ったとき、彼らの拍手や指笛の音が僕の耳に響き渡るのが確かに聞こえた。相手が幽霊だとはいえ、ちやほやしてもらえればこんなにも誇らしく感じられるものなのだろうか。
僕のスピーチの後、大半は元々の持ち場に散ってそれぞれの「日常」に戻っていった。それでも、僕は残りの大半の幽霊たちに囲まれ、僕のファルマス滞在について、それから日本について質問されたりしていた。やはり、小さな港町のようなこのセメトリーでは、僕のようなイギリスやヨーロッパから遠く離れた国からやって来た者はとても珍奇に映ったに違いない。そしてその間、例の女の霊はずっと僕の横に付いて、幽霊たちとの会話が弾むように取り計らってくれたのが有り難かった。もちろん、彼女自身も僕に色々なことを尋ねては会話を引き出してくれていた。
渡英してきてから会話という会話にほとんど恵まれなかった僕にとっては、例え幽霊だとはいえあんな風に歓迎されたというのは大変に貴重なことだったまるで「憑き物が落ちた」かのように、ほの温かい感情が胸に広がっていくのを感じた。ここでやっと、自分がどこかに「受け入れられた」と実感することができたのだ。
そんな風に歓談していたらあっという間に数時間が経ってしまっていた。そこで、翌日も午前中から小説の執筆があるということで、真夜中になる前にお暇することにした。それを聞いて、僕の案内人をずっと務めてくれていた女の霊は「あら、まだ宵の口だというのに残念ね。もっといられないの?」と引き留めてきたとりあえず理由を話すと「そうね、それなら仕方ないわね」と引き下がったが、セメトリーの門のところまで見送りに来た彼女はちょっと首を傾げてみせた。そして、こう言った。
「明日の夜お忙しくなければ、またここに来てくれるかしら。もちろん、無理にとは言わないのよ。」
彼女の真摯な瞳が僕をじっと見据えていた。陽炎の上からもその形の美しさが分かる、穢れなく澄み切った視線だった。
「Certainly, miss」と、僕は無意識のうちに即答していた。自分でもどうしてそんな返事をしてしまったのか、今でも理解できない。とにかく、「ええ、もちろん」という文句が知らぬ間に口から躍り出ていて、言った後になって吃驚したのだ。まあそもそも、幽霊相手に「ノー」とはなかなか言えるわけがないのだろうけれど……。
「良かったわ」と、女の霊は一安心したように溜息をついた。「それじゃ、おやすみなさい。あなたの執筆がうまくいきますように。」
僕はそっと会釈をしてセメトリーを後にした。
フラットへの帰路から床に就くまで、僕はほんの少し前に体験したことを何度も反芻していた。そして、その度に驚愕した。何故って、考えてもみてほしいのだ。まず、旧友と一緒に映画を見に行った後、彼の車が故障したため自力で帰ることになった。何とかしてセメトリーを通らない道を通ろうとするも駄目で、結果嫌々ながらセメトリーまで来たら再度「見て」しまった。すると、そこからどういうわけだか幽霊たちのコミュニティに歓迎されるという恩恵を授かったのだ。さらには翌日の夜も彼らを訪れる約束まで取り付けてきてしまった。何ということだろう。これほど非現実的でドラマチックな出来事を一夜にして体験する機会なんて、過去にも未来にもあり得ないのではないか。
「僕は明日もセメトリーに行くのかなあ」と、床に入った僕は寝室の暗い天井を見つめながらぼんやり考えていた。もう、瞼を閉じても恐怖を感じなくなっていた。カーテンの隙間から一生懸命に視線を逸らすこともなくなった。「あれ」を経験した以上、ファルマス・ジェネラル・セメトリーに住まう幽霊たちは、僕を恐れおののかせる存在ではなくなっていたからだ(実際、追い掛けてくることはないようだと分かったのが一番の理由だが)。折角また次の夜もとお誘いを受けたのだし、他に趣味もないしで、行っても損はないのではないかという気がしていた。彼らの会話に加わったり、その生態を観察したりしていれば、小説を書く上でも何らかの収穫があるのでは、という思いもあった。
そうやって悶々と考え込んでいて脳裏に浮かんでくるのは、やはりあの若い女の幽霊が別れ際に僕に送った真っ直ぐな眼差しだった。「あんな目で見つめられたらそれこそ断れないよなあ」なんて暫くの間うだうだしていたのだが、突然はっとしてベッドの中で気を付けの姿勢になった。というのは、セメトリーにいる間あれほど僕に良くして気を使ってくれた彼女についての詳細を、全く知ることなく帰ってきてしまったと気づいたからだ。彼女の名前すら聞いてこなかっただなんて。
ああ、自己アピールに気を取られてそんな大事なことを聞きそびれてくるとは。僕は何だか恥ずかしくて、布団を思わず頭まで被った。そして顔を手で覆って、暫く声にならない呻き声を上げながら己の不甲斐なさを恥じた。それを気が済むまでやった後、ようやく僕は布団から顔を出した。そして、次の日の夜は絶対にあの墓地に行き、彼女の名前くらいはちゃんと聞いてこなくてはいけないと決意することができた。名誉挽回というわけだ。
次の日の午後九時を過ぎた頃、僕はそわそわと落ち着かない気分でフラットのダイニングキッチンの中を歩き回っていた。厚めのコートはすでに羽織っていて、「墓場に行こう」という気持ちも揺るぎない状態だった。でも、実際に現地まで行ってみたとして、前の日にはいたはずの幽霊たちがいない可能性はないだろうか。または、今度こそ恐ろしい本性をむき出しにしてくるかもしれない。そうした不安が僕をやや足止めさせていた。
しかし、約束してきてしまったからには、顔を見せないわけにはいけないだろうとも分かっていた。彼女たちはセメトリーの区画から離れることはできないらしいので、僕が姿を現さなかったとしてもここまで押し寄せてくることはないだろう。が、一旦結んできた約束を破るのは気が引けた。
そこで僕は思い切ってフラットを出た。ほとんどがカーテンを閉め切った家と家との間を、数少ない電柱の明かりを頼りにしながらすり抜けた後、静まり返るスワンプールから道を横断し、彼らのいるセメトリーを目指して歩いて行った。徒歩にして所要時間五分。予想よりもずっと短い旅だった。
入り口近くまで来て覗いてみると、前の晩と全く変わらない様子で、大勢の幽霊たちが動き回っているのが窺えた。そのうちの何人かが僕に気付いたらしい。「ああ、昨日の」「あの日本人、また来たみたいよ」と口々に言うのが僕の耳に聞こえてきた。そんな彼らの間を縫うようにして足早にやって来たのがあの女だった。女は、「あら、やっぱり来てくれたのね、嬉しいわ」と一際高い声で叫び、僕の手を取ろうとした。だが、やはり人間の手を物理的に掴むことはできなかったようだった。彼女は眉間に軽く皺を寄せると、「まあいいわ、入って頂戴」と手招きをした。僕はそれに従い、幽霊たちがそこら中で談話に勤しんでいるセメトリー内に入った。
中に入っても、僕はまだ呆然と立ち尽くしていた。「今日こそは彼女に名前を聞かなくては」と意気込んで来たものの、いざとなってみるとどう振る舞うべきか見当もつかなかったからだ。そうして入り口に棒立ちになっていると、彼女が僕に向かってもう一度手を振った。「あなた、もう少しこちらにいらっしゃいな。そこだと外から丸見えだわ。」そう言って、墓場の中で影になっている部分を指で指した。
なるほど、夜中のセメトリーの中をアジア人の男がうろついている姿を通行人にでも目撃されたら、不審人物として即座に通報されてしまうに違いない。彼女はそうしたトラブルから僕を守ってくれていたわけだ。ああ、何たる聖人。僕は再び彼女の後を追い、彼女が座っている木の根のところまで行って促されるままに隣に座った。
暫くの沈黙があった。僕はどう話し出して良いものか分からないし、彼女のほうも黙っていたので、二人で座っているだけという大変気まずい空間になってしまった。掌が、その前の晩とは違った理由で汗ばんでくるのを感じた。とはいえそれで何ができるということもなかったので、僕は手持ち無沙汰気味に、周りの幽霊たちを観察している振りをして時間を稼ぐことに決めた。
すると、興味深い発見があった。僕の視界に映る幽霊たちが皆、十代後半から二十代、三十代前半くらいまでの若々しい形姿でいたのだ。その生涯を終えたときの年老いた姿ではなく、若者の頃の容姿でいるのは一体何故なのかと、見れば見るほどに不思議に思えてきた。そこで、乗り掛かった舟ということで、まずは会話のきっかけとして隣の女の霊に尋ねてみることにした。
「ああ、それはね」と彼女は答えた。つい先刻の沈黙など全く気に留めていないという風の話しぶりに、僕はいささかほっとさせられた。どこかの本でいつか目にした、「沈黙で気まずいと感じているのは実際にはあなただけかもしれません」というお説教的なフレーズが一瞬脳裡をよぎった。
「生きている側からすると、幽霊といえば死んだときの姿でいるものだと思うのかもしれないわね」と、彼女。「でもね、実際に死んでしまって、その後幽霊になるとするでしょう。そうしたらあなた、わざわざよぼよぼのお爺さんお婆さんの格好をしていたいと思って?」
つまり、彼女の話では、死んで幽霊になるとき、自分の顔立ちや体形に限り、好みの姿を選ぶことができるのだという。確かに、幽霊として数十年や数百年という時間を過ごすのなら、ホラー映画で描かれるような、見るからにおどろおどろしいゾンビに好き好んでなりたいと思う者は、余程の天邪鬼でもない限りいないだろう。どうせなら生前で最高の見てくれを選ぶのが当然だ。論より証拠、僕たちの周りで好き勝手している幽霊たちも、生きていたときに最も美しかったであろう姿をしていた。ただ、声のほうはそこまで器用に操れないようで、気を付けていないとすぐに老人らしいしわがれ声になってしまう。また、その若々しい口元から「それで、うちの孫がね」だの「年金が……」などというキーワードが飛び出てくるのは何ともシュールだった。
彼らが選べるのは容姿だけではなかった。衣服も、実際に自分の持ち物であれば好きに選ぶことができるらしかった。これも、じっくり観察してみるととても面白いものだった。めいめいがその「全盛期」に流行した衣服を着ているわけだが、六十年代風や七十年代風だったり、はたまた奇抜な八十年代風だったりしていた。つまり、いろいろな年代のファッションが入り混じって、非常に混沌としていたのだ。ツイッギー並みのミニスカートを着こなした幽霊がいるなんて、このセメトリーに来るまでは全く想像もしていなかった!
一方で、僕の隣に腰掛けている女の霊が纏っている衣装は一味違っていた。歴史的な絵画のモデル女性や英国古典文学に登場するヒロインの衣装のような、スカート部分が長くゆったりとしたドレスだったのだ。また、美しいプラチナブロンドであっただろうと思われる長い髪は垂らさず、後ろで一つにまとめてあった。恐らく、三十年代くらいの服装だろうか。このセメトリーの中で彼女が一番「幽霊じみて」見えたのはそのせいだったのかもしれない。
「ああ、どうして私だけ、こんな馬鹿馬鹿しいドレスを着なきゃいけないのかしらねえ」と、彼女はいまいましげにスカートの裾をつまんでみせた。「いいえ、理由は分かっているのよ。私はこの区画でも古参でね、あなたのご推察通り、三十年代に死んだのよ。十九歳でね。だから、持っている服といえばこんなものしかないのよ。」
十九歳だって!?三十過ぎの男がそんなうら若き女性の側に座っているわけにいかないと、僕は飛び退りかけた。それを見た彼女はぷっと噴出した。「いいのよ、もう死んでいるんだから」そこで僕は当初の座席にすごすごと戻った。
とはいえ、やっぱり何と声を掛けるべきか分からない僕。ただ、その三十年代風のドレスが彼女の古風な顔立ちにとてもよく似合っていたのは確かだった。それで、それをそのまま伝えて会話の接ぎ穂を得ようとした。だが、その瞬間、派手なカールのロングヘア、蛍光色の化粧にミニドレス、という出で立ちの女の霊が割って入ってきた。彼女は大木の側の墓石に寄り掛かって座っていたのだ。
「でも、メイベルちゃん、あなたは美人なんだからそのドレスも似合っていいじゃないの。」
「ありがとう、優しいのね、リズ。」と彼女は諦めたような微笑みを浮かべてそれに答えた。「でも、一度でいいから、あなたみたいなファッションに挑戦してみたかったと思うのよ。」
この彼女のエイティーズロッカー風の格好はちょっと想像しにくい気もしたのだけれど。しかし、この流れで彼女の名前が「メイベル」であると知ることができたのは大きな収穫だった。ただ、あれだけ意気込んで来たのに自分で聞けなかった上、僕に良くしてくれる彼女に捧げるはずだった賛辞までこうして奪われたのはとてもショックだった。そこで、負け惜しみというのではないけれど、何とか自信を回復すべく、「お名前、メイベルっていうんですね」と言ってみた。蚊の鳴くような小さな声しか出なかったが、彼女はしっかりと聞き取っていてくれたらしい。
「メイベル」は「ええ、そうなのよ」と、ハードロックガールから振り返って言った。「あら、そういえば私、自分のことについては何も言ってなかったわねえ。聞きたい?私の身の上話。」
勿論、物書きにとってはどんな話でも肥やしですからと僕は答えた。無力感はまだ残っていたが、彼女の優しさに救われ調子を取り戻したのだ。この彼女は、僕がどんなヘマをしようと、僕が話しやすい方向に持っていってくれる。その彼女の生前の「ドラマ」に聞く価値があるのは至極当然なことだと感じた。
「まあ」とメイベルは手を叩いた。「それなら素敵ね。こんな私の話でも作家さんの役に立てるっていうのなら光栄だわね。それにね、私の人生、ちょっとばかりドラマチックだと自分でも思っているのよ」彼女は僕に向かっていたずらっぽく目を光らせてみせた。
「そうそう、メイベルちゃんの話はヤバいのよ」と先程のハードロックガールことリズも意味ありげな笑みを浮かべながら僕たちのほうへにじり寄って来ていた。「私なんてもう何十回と聞いているけどね、今でも全然聞けちゃうもの。とにかく、ヤバいんだから。」
メイベルはその時代を超えた賛辞にはにかんだのか、一瞬目を伏せた。だが、一つ咳払いをすると、「それじゃ、ご披露するかしらね」という前置きと共に、若く美しい、ただし命のない語り手は話し始めたのだった。
メイベルは、一九一〇年頃、ファルマスの港近くにある大きな屋敷で誕生した。そして、三人姉妹の末っ子として愛情をたっぷりと注がれ、蝶よ花よと大事に育てられた。年頃になって花のような美しさを備え持つようになった彼女は心根が優しく清らかであったこともあり、街ではなかなかに名の知れた存在になった(この辺りはメイベル本人ではなく、リズや、その側に佇んでいた、長いもみあげが印象的な男の横槍によるものだった)。麗しく、しかも親しみやすい彼女を慕う男衆は少なくなかった―そのためか、メイベルは十八歳という若さでこれまた地元で人気の好青年と巡り合い、交際の末婚約をした。
まさに順風満帆、その「鈴蘭」という名前の由来にぴったりの心優しいヒロインに相応しい展開というところだったが、彼女が十九歳になって少し経った頃、一つの悲劇が訪れた。夕食に供された牡蠣を食べ、翌日になって食中毒に襲われたのだ。それまで病気とはほぼ無縁、全くの健康体で人生の謳歌中だった彼女は、突然病床に就くことを余儀なくされた。家族はもちろん不眠不休で彼女の看病に当たり、地元の名医も毎日のように往診にやって来ては処置を施した。しかし、周りのそんな献身も虚しく、メイベルの病状は一向に回復することがなかった。そしてそれから数日後の朝、苦しみ抜いた少女はついに息を引き取ったのだった。
「あれは本当に呆気なかったわ」と、メイベル。言い終わると同時に、長い溜息がその口から漏れ出た。「それまで病気なんてほとんどしたことなったのに、突然具合が悪くなって、あっという間にはい終わり、だもの。それにお腹が痛くて、手足はむくむしで、苦しくてね。『私、一体何か悪いことをしたのかしら』『なんでこんなに苦しい思いをしなければいけないのかしら』って、本気で呪ったわ。」
確かに、うっかりノロウィルスに当たったときの辛さは耐え難いものだからなあと僕はいたく共感した。現代ならともかく、当時は牡蠣の毒に効く薬もまともになかっただろうから、それはそれは辛かったに違いない。しかし、彼女の「ヤバい」話はそれだけに終わらないらしかった。
「ジェラルド、私の婚約者はね、毎日看病に来ていたわ」とメイベルは続けた。将来を誓い合った可憐な恋人が青天の霹靂の如く病に倒れ、日に日に弱りゆく姿を見ていたそのジェラルドという男も、彼女同様に憔悴し切っていたのだそうだ。「日ごとにやって来ては、私の枕元で私の手を取って、『ああ、メイベル、お願いだから何とか持ちこたえてくれ』『天使よ、私の淑女を奪うことなかれ』なんてずっと呟いていたのよ。そんな姿を見ていたらね、何だか私のほうまで悲しくなってきちゃって、『ああ、彼がこんなに惜しんでくれているのだから、私頑張らなくちゃ。良くならなくちゃ』って思ったのよ。彼を残して逝くなんてそれだけでも泣けてきてしまって。でも、結局どうにもならなかったのよね。」
恋人の祈願が天に通じることはなく、メイベルは息を引き取ることになったのだが、驚いたことに、婚約者ジェラルドは彼女の葬儀に顔を出さなかった。「私が死ぬ前日くらいかしらね」と、遠くを見つめながらメイベルは語った。「誰もいないときに、彼が私の部屋に入ってきたの。それでね、いつもみたいに私の手を取って唇を押し当てたわ。でも、『メイベル、済まない』『許してくれ』なんてずっと言っているのよ。どういうことか聞き返したかったけれど、もうそんな体力も残っていなくてね。そしたら、私の額にキスをして、暫く名残惜しそうに見つめた後、出て行ってしまったの。」
その後彼女の家族が看病のために入ってきたが、全員が一様に顔を強張らせているか、または真っ赤に怒り狂った表情をしていたという。部屋のすぐ外の廊下でひそひそと囁き合う声も聞こえたが、その内容は当時の疲れ切った彼女には届かないままだった。
やがてメイベルは牡蠣の毒との戦いに敗れ、静かにあの世へと飛び立った。冷たくなった彼女の周りに集まった家族や弔問客が口々に言ったのは、「ああ、何て可哀そうなのだろうねえ。若くして死んだだけでなく、婚約者が駆け落ちしてスコットランドに逃げてしまったなんて」だった。
「ね、すごいでしょ」と、メイベルがそこまで話し切ったのを受けてリズが言った。メイベルも、「私、自分でも全然信じられなかったわ」と大きな目をさらに見開いた。僕はただただ頷くしかなかった。
僕の唖然とした表情に満足したのか、メイベルは今度は堰を切ったように話し始めた。「すごく悲しかったし、それ以上にもどかしくて仕方がなかったわ。あの人、ずっと浮気していたのよ。で、私が臨終間近と知るや、別の相手と逃げてしまったの。それを私、死んでから知ったわけでしょう。彼に食って掛かろうにも死んでいちゃ何もできないし、そもそもどこかに行ってしまっていたんですもの、本当にもどかしかったわ。ただただあの人の名前を叫んで泣き喚いたんだけど、そんなもの誰も聞いてないんだし。」
「一番辛かったのはね」、と凍り付いた笑顔のメイベル。「葬儀のとき、皆、私が何も聞いていないと思って、それこそいろんなことを喋っているのよ。ジェラルドの悪口はまだしも、『メイベルのほうが浮気相手だったんだろう』とか、死人に耳なしと思っているのねえ。私、棺桶の中から全部聞いていたんだけどな。」
ここでリズが髪を揺らしながらカラカラと大袈裟に笑ってみせた。僕もつられて笑いそうになったが、慌てて引っ込めた。さすがに失礼だろうと思ったのだ。
だが、そんな僕の顔を見て、メイベルは「いいのよ、笑ってくれて」と制した。「何十年も昔のことですもの。そりゃ、当時は本当に悲しくて、ここの墓場に来てからも泣き暮らしていたけれど、こうして皆と過ごしているうちに忘れてしまったわ。時間ってすごいわね。」
時間ってすごい。確かにその通りなのかもしれないと、僕もちょっと考えてみた。最愛の恋人との婚約が決まり、日々を幸せいっぱいで過ごしていたところで突如死へと追いやられた彼女。しかも、その婚約者は彼女とは別に恋人を作っていて、メイベルが危篤と知るや出奔してしまったのだ。まさに、薔薇色の人生から悲劇のどん底へと一気に突き落とされたようなものだろう。それまで人を疑うことすら知らなかったメイベルにとってそれはあまりにも残酷な仕打ちで、死後幽霊になってから暫くは悲しみに明け暮れたというのも当然だろう。
それでも、そんな出来事から長い時間が経過すれば痛みが風化していくことがあるのかもしれない。僕はメイベルを暫く観察していたが、強がっている様子は全く見られず、元婚約者を寂しがってもいないという印象だった。彼女の悲しみは、時間によって確かに治癒されたのだろう。
「あとね」と、メイベルは今度はしんみりと語り出した。「時間は私たちを育ててくれるんだと思うの。生きていたときと今とでは考え方が全然違うわ。」
どういうことかというと、彼らは、死後もその精神活動を続けているということなのである。無論、ここでは区画内の幽霊たちとの触れ合いくらいしかできない。それでも、そうして誰かと話したり、あるいは自分と向き合い時間を得たりしていれば、精神が自ずと磨かれていくということなのだろう。十九という若さで世を去ったメイベルでも、ここに八十年近く住んでいるのだから。だからこそ、弱冠三十そこそこの僕なんかと比べ、非常に落ち着いて大人びて感じられたのだろうと、僕は今でも思うのだ。
「そうでしょ、リズ?」メイベルはカールした髪をいじっていたリズのほうを振り返った。リズは大きく頷いて言った。リズは「確かにねえ」と引き受けた。「私もね、メイベルちゃんほどではないにしろ早死にしたほうなんだけどねえ。ああ、交通事故でね。でも、ここに何十年といるとね、生きていたときみたいに周りと喧嘩しなくなるもんよ。私だけでなく、皆、今のほうがずっと落ち着いているんじゃない?」
彼女たちの言う通り、確かに、このセメトリーを見渡す限り、言い争っている幽霊は一人として見つからなかった。生前であれ死後であれ、長く生きていればその分精神も成熟してくるのだろう。ここの幽霊たちは肉体の衰えとは無関係らしいので、さらに高度な精神生活を営むことができるというわけなのだ。ある意味で仙人の境地と呼べるのかもしれない。
二、
しかし、中にはそうではない幽霊もいた。
メイベルとリズが一通り話し終えた後、間髪入れずに「スコットランドといえばね」と話しかけてきた幽霊があった。見れば、僕たちが座っていた木の後ろに、女の幽霊がもう一人腰掛けていた。どうやら、僕たちと一緒にメイベルの身の上話の一部始終を聞いていたらしい。
二十代半ばくらいの見た目をした、小柄な女性の幽霊だった(少なくとも僕よりは背が低かった。メイベルだって、身長は僕と同じくらいあったのだ)。角張った色白の顔に、落ち窪んだ目が妙に際立つ、見るからに神経質そうな顔をしていた。その幽霊が、「スコットランド、うちの娘もスコットランドで結婚したのよ」と話に割り込んできたのだ。
「あら、エレイン」と、横入りしてきた幽霊にメイベルは微笑んだ。「あなたの娘さんもスコットランドへ行っていたなんて、私知らなかったわ。でも、それって結構最近のことね? 昔のように駆け落ちってことではないんでしょう?」
確かに、スコットランドのグレトナ・グリーンはかつて駆け落ち婚のための教会があることで有名で、その名が古い英国小説にもよく登場している。しかし、エレインの娘の結婚は駆け落ちとは関係のないケースなのだろうな、と僕も思った。
「いいえ、あれは駆け落ちも同然よ」とエレインは叫んだ。その噛み付くような剣幕に、僕とメイベルは驚いて目を合わせた。リズと、その隣にいたもみあげの長い男(彼とは度々挨拶や雑談をしたが、その名前を聞くことはついぞなかった)は面倒くさそうな表情を一瞬浮かべて、そそくさとその場を離れていった。
だが、そんなことはお構いなしとでもいうように話し続けるエレインであった。
「娘はロージーっていうんだけどね。もちろん、私が名付けたのよ」とエレイン。「一人娘でね。それはそれは手塩に掛けて育て上げたはずだったのよ。娘も、最初のうちは素直に言い付けを聞いていたのに、年頃になってくると、誰に似たっていうのかしらね、段々気が強くなって、何を言っても逆らうようになってきてね。」
それから、着る服だの、門限だの、付き合う男だの、彼女がいかにして娘の行動を制限しようとしたのか、さながら武勇伝のごとく次々と披露された。僕が聞いていても「少しやり過ぎなのでは?」と感じられるレベルだった。恐らく、子離れできない母親とその掌でもがく子供、という構図なのだろう。日本だとよくあり得る話だけれど、個人の独立が尊重されるという欧米でも同じことが起こるのだろうか。そんなことについて寧ろ感心しつつ、エレインが捲し立てるのを神妙そうな表情を顔に張り付けてただ聞いているしかなかった。嵐のようなその勢いは当分収まりそうになかった。
「とうとう手を付けられなくなったのは、娘がロンドンの学校に行くことが決まったときよ。私としちゃ、ロンドンなんて危険な場所に一人で行くだなんて絶対に駄目だって必死で言い聞かせたんだけど、あの子、聞きやしない。出発前夜に取っ組み合いの喧嘩になったわ。で、次の日の朝、別れの挨拶もせずに出て行ってしまった。」
「あら、まあ」とメイベルが気前良く顔をしかめてみせた。「それは寂しいわねえ。」
「全くよ、それでその後、ほとんど会うことがなくてね」と、エレイン。彼女は確かに寂しそうで、その瞳には大粒の涙さえ浮かんできていた。僕の頭には「自業自得」という言葉を一瞬過ったが、感付かれてはまずいと慌てて打ち消した。
だが、弾丸さながらに夢中で捲し立てているエレインには僕のそんな思考も届かなかったようだった。やがて感極まってきた彼女によれば、上京した娘のロージーは在学中にスコットランド出身の男性と恋に落ちた。二人は卒業後、男の故郷、つまりスコットランドで就職し、同地で結婚すると決めた。
「ロンドンなら電車で何とか行けるけれど、スコットランドよ!? いくらなんでも遠過ぎるわよ。それで、スコットランドなんて駄目だ、結婚するならコーンウォールかプリマスでって、散々言ったのに、聞きやしない。」
娘のほうでも過干渉な母親にはほとほと嫌気が差したらしい。エレインはスコットランドで開いた結婚式に招待されず、その後の母娘はほとんど没交渉となった。ロージーは父親のほうには度々連絡を寄越したが、母親のエレインとは一言も、電話はおろか、一通の手紙さえも交わさなくなったのだ。
そして、二人が事実上絶縁してから二十年近くが経過したころ、エレインの大病、乳癌が発覚した。発見が遅れたため治療も難しいと悟った彼女が考え付いたのは、一人娘のために何か形見を残すことだった。
病魔に冒された彼女は、体内にわずかばかり残る体力を頼みに、やっとのことで形見らしいものを見つけ出した。それは大粒の真珠をあしらった指輪で、本当はロージーがまだ幼いとき、彼女が結婚したら贈ろうと決めていたものらしい。さらに、死ぬ間際になってしおらしい気持ちになったのか、生き別れとなった娘のロージーに長い長い謝罪の手紙を遺すことにした。その手紙を夫に代筆してもらって何とか書き上げると、悔いから解放されたエレインは安らかな眠りについた。
「それで、指輪は無事に娘さんの手に渡ったの?」とメイベル。
「さあ、それが分からないのよ」と、エレインは首を傾げて答えた。「あの子は私が死んじゃった後にコーンウォールに来たし、そのときには私も棺の中だったんで、全然見えなかった。」
「そう。」メイベルは肩を落とした。僕も彼女と一緒に俯いた。というより、エレインが話し始めてから、彼女の話に相槌を打つのはすべてメイベルに任せきりで、僕は一言も口を聞いていなかったのだ。
「それでね」とエレインが僕のほうに向き直って言った。「あなた、あなたにちょっと見てきてほしいのよ。娘が指輪をちゃんとしているかどうか。」
僕はほとんど飛び上がるところだった。メイベルも目を見開いて僕とエレインとを交互に見つめた。何故って、彼女の視線は真っ直ぐ僕に向けられていた、つまり、彼女のために「見に行かなくてはならない」のは間違いなくこの僕だったからだ。まさか、スコットランドまではるばる行けと?
うろたえる僕の姿を見て、エレインは口に手を当ててコロコロとした笑い声を立てた。「いえね、あんなところまで飛んでと頼んでいるんじゃないのよ。私ね、聞いたのよ、昔近所だったブレアさんから。彼、最近ここに入って来てね。あの人の言うことによれば、あの子、今ファルマスに帰って来ていて、私の旦那と住んでいるのよ。」
彼女の話によると、娘のロージーは結婚後三十年にして、熟年離婚ということでコーンウォールまで帰って来たらしい。離婚後も一人でスコットランドに住むという選択肢もあったものの、彼女の父親、つまりエレインにとっての夫が高齢ということで、ならばその世話をするために生まれ故郷に戻って来るのも悪くないだろうと考えたようだ。
「もちろん、ブレアさんにも指輪のことは聞いたんだけどね。でも、あの人『そんなところまで見てない』って言うんだもの。」
そこで、一応生身の人間である僕に巡り合ったということで、娘が元気でやっているか、そして指輪について偵察してくる任務を託そうと考えたわけだ。死ぬ間際にも会えなかったロージーが指輪をしているか否かで、過干渉な母を許したかどうか判断できるかもしれないということだ。彼女にとっては死活問題だったのだろう(本人は既に死んでいるけれど)。
「だから、ね、お願いされて頂戴よ。本来なら私自身が行きたいところなんだけど、この通り、できないんですもの」
彼女の瞳が僕の目を痛いくらいに凝視していて、まるで刺されているかのようだった。メイベルの眼差しも真っ直ぐだがこれとは違う。エレインの場合、その要求を無下に断るなど絶対にできない、つまりとても厄介な真っ直ぐさだ。僕は一瞬迷った。断りの文句や口実を幾つも考えてみた。でも、結局は蚊の鳴くような声で「Yes」と答えるしかなかった。
「あら、そう? 引き受けてくれるのね。本当に嬉しいわ。それじゃ、お願いするわね。」と、弾んだ声のエレインは答えた。青白い幽霊の顔に光がぱっと灯ったように見えた。そして、詳しい住所を僕が手帳に書き留めるのを見届けると、まるでスキップでも始めるのではと思ってしまう程軽い足取りで消えて行ってしまった。
ああ、この墓地に来て早々、面倒な依頼を引き受けてしまった。僕がたまらず深い溜息をつくと、心配そうな面持ちのメイベルと目が合った。「大丈夫?」と言いたげな視線だった。それで、「過干渉な親って日本だけだって思っていました、こちらにもいるんですね」と話しかけてみた。
「そうねえ」とメイベル。彼女は指に顎を乗せて神妙そうな表情で暫く考えていたが、やがて口を開いた。「でもね、私、子供がいないでしょう。だから、例え離れ離れになったとしても、ああやって愛する子供がいるってだけで素晴らしいに違いないって思っちゃうのよ。」
これはまた重い言葉だった。そう、彼女はこれからもずっと子供に恵まれることがないのだ。僕はもう一度言葉を失った。迂闊に喋ってメイベルを困らせるのだけは避けたかったのだ。
「いいのよ」とメイベル。「もう何十年もこれなんですもの、だいぶ諦めはついているわ。」
僕はただ頷いた。ああ、彼女はこんなにも殊勝なのに、エレインからはどうして俗が抜けないのだろうか。
「そう、それよりもね」とメイベルが今度は明るい調子で切り出した。「あなた、明日の夜もここに来てくださって?」
彼女はにこにこと微笑んでいた。「もちろんですとも」と僕も答えた。エレインからの頼まれごとより、こっちの約束のほうが何百倍も気持ちの良いものだった。
そうして、メイベルやその他幽霊たちに「お休みなさい」を浴びせられながら、僕は墓地を後にしたのだった。
とはいえ、エレインの娘を探すというのはそんなに簡単なことなのかなあと、僕は帰ってから暫く考えていた。その考えは、次の日小説を書いている間も頭を離れなかった。住所は教えてもらっていたので、スマートフォンの地図アプリに入力し、後はGPSに任せれば現地まで行けることは技術的には可能だ。エレインと、念のためブレアという男性からロージーの風貌についても聞いて知っていた。理屈としては、その特徴に当てはまる見た目の女性を現地で見つけられれば良いわけだ。でも、ロージーにタイミング良く出会うことは結局できるのか、この点はかなり謎だと思った。そもそも聞いてきた住所が本当に正確なものなのかについても不安があった。
しかも、ロージーを見つければそれで完了、で終わる話ではない。エレインの形見の指輪をはめているか見てくるというミッションまであるのだ。「これは、やり方によっては不審者だぞ」と思わずにはいられなかった。何故って、当然だろう。見ず知らずの、しかも異国人の男が家の周りを屯していて、しかも手元をじろじろ見ていたら、怪しまれること間違いなしだ。かといって「あなたのお母さんが、形見の指輪をしているかどうか聞いていますよ」なんて本人に直接尋ねるわけにもいかない。そちらに転んでも怪しさ満点だろうし、最悪の場合警察を呼ばれる可能性だって低くはない。
「どうしようかなあ」と、僕は書斎で、大きな椅子の背もたれに寄り掛かりながら一人呟いた。その夜もセメトリーを訪れることになっていたから、「やっぱり無理でした」と断って来るという選択肢がないわけではなかった。正直に言うと、僕自身もそれを選びたかった。しかし同時に、あの女、エレインが扱い辛そうな相手だということも熟知していた。真っ当な理由もなく「できませんでした」なんて口走ろうものなら、鮫の如く食い下がってくるだろう。そんな彼女を前にしどろもどろにならないで自然な応答ができるかといったら、こちらもあまり自信がなかった。
最終的に、夕方近くに、普段の散歩コースを少しばかり伸ばす形でロージーの家まで行ってみようと腹を決めた。そして、現地でロージー(を発見したときにその手元をしっかりと確認できるよう、眼鏡をしていかなければなあ、とも思った。
さて、普段はフラットから海辺の公園まで行って商店街へと抜け、そこからフラットまで引き返すというルートを通っている僕だったが、その日は違っていた。まず、いつもの外出では掛けない眼鏡を「装備」した。次に、商店街の出口に来たところで、スマートフォンのGPS機能をオンにして地図帳アプリを起動し、家から持ってきたメモ書きを元にロージーの家の住所を打ち込んだ。彼女の家までの徒歩経路が一瞬で表示された。
「よし」と僕は自分に発破を掛けた。初めてのお使い、いやいや、ミッション開始である。
ミッション開始とはいえ、やはり「面倒ごとに巻き込まれてしまったな」という気はなかなか拭えなかった。しかし、こうしてナビゲーションに手取り足取り導かれて歩いていると、出発前には予想だにしていなかったリワードに恵まれることができた。そのリワードとは、普段なら選ばない道を歩くことで、今まで知らなかった景色を発見することができた、というものだ。
それまでも散歩はほぼ毎日していたのだが、海岸線沿いしか歩いていなかったせいで、僕が知っていたファルマスの景色といえば、色彩に乏しいビーチとそこに至るまでに立ち並ぶゲストハウスくらいだった。ファルマスはイギリスにしては比較的暖かく、また名高いビーチもあるらしいので、国内からの旅行客が多く押し寄せる。それで、こうしたゲストハウスもたくさん建てられているのだろう。ドアの真横に、港町の誇りと言わんばかりに海賊風の置物を飾っているゲストハウスもあって、見ていると何だかわくわくとしてきた。ちなみに、ゲストハウスの中には黒字に白い十字をあしらった旗が置かれているところが少なからずあった。そのきりりと引き締まった雰囲気の旗を見て、僕は当初海賊のシンボルかと捉えていたのだがそうではなくて、コーンウォール州を代表する旗なのだそうだ。
海辺近くの住宅街とその辺りの景観もまた趣深かった。海のすぐ前に造られた公園には冬でも色鮮やかな花が植えられていて、こちらの目をなかなかに楽しませてくれた。公園を縁取るヤシの木も、優雅な南国風の港町という雰囲気を添えるのに一役買っていた。公園近くには大きなフラットが幾つかあり、これらも周りの景色に絶妙に美しく調和していた。ゆったりとした衣服に身を包んだマダムがお茶を楽しみながらベランダで読書に勤しんでいたりして、ヨーロッパの街ならではの余裕も感じられたものだ。
だが、エレインの依頼通りにロージーの家を目指す途中で見た風景は、そうした海辺の景色とはかなり違ったものだった。GPSに誘導されるままに歩む僕を出迎えたのは、イギリスのごく普通の住宅街だった。でも、そうした英国では飽きるほど見られる一般的な住宅街は、日本人の僕には観察する価値が非常に高いものだった。
英国の住宅街を散策中に真っ先に意識するのは一軒家の多さだ。無論、アパート状のフラットも所々に建てられているが、それよりも一戸建ての家の数が上回っていたように思う。しかも、ただ多いというだけではない。そうした家の一つ一つがまた美しいのだ。ほとんどの家が庭付きで、思い思いに花や植物を植えたり、小さなサンルームなどをしつらえたりしている様子は、「まさにヨーロッパ」といった印象だった。また、ロンドンでも見掛けた風景だけれど、窓辺には洒落気のある小物や花などが飾られ、美意識の国イギリスの心意気らしきものを醸し出しているように思えた。生花の代わりに造花を使っている家も少なくなかったが、そんな生活感さえ美しくまとめ上げられていた。さらには洗車されていない汚い車や、あちらこちらに配置されたごみ箱(wheelie bin)でさえ、街の景観にしっかり調和しているのだから驚きだ。
「これぞヨーロッパの家」といった、大型で豪華な造りの家屋が登場してくるのも欧州の田舎町の散歩の醍醐味だろう。非西洋文化圏から来た人間にとってはやはり存分に興味深いもので、細かい部分までしげしげと観察せずにはいられなかった。例えば、中央に大きな階段と踊り場のある民家を下から見上げたときには、某テーマパークのお化け屋敷アトラクションにそっくりだと思って感動した。さらに、貴族とは言わないまでもジェントリ(英国の地主層、郷紳)クラスの一族が住んでいたのではと思う程立派な、本物の「お屋敷」にも遭遇した。後で調べて分かったのだが、「Marlborough House(マールバラ・ハウス)」という名のお屋敷らしい。小ぶりではあるが召使い用の別棟まであるとても瀟洒な建造物で、『プライドと偏見』のベネット一家が生活していそうな規模だと推測した。優雅な曲線を描く門の先には広々とした玄関が構えていて、かつては馬車の往来があったのだろうかと妄想も掻き立てられた。
ファルマスの街で面白いのは美麗な建物たちだけではない。その地名の数々も独特の魅力を秘めているのだ。ドラゴン伝説を誇るコーンウォール州は元々ケルト人の土地だったため、「Gwy」や「Gylln」、そして「Tre」「Pen」「Pol」などで始まる地名が多い。これらは皆、コーンウォール語(Cornish Language)、すなわちコーンウォールに住んでいたケルト人たちの言語に由来するものだ(ちなみにこのコーンウォール語は18世紀後半に絶滅し、20世紀初めには最後のネイティブスピーカーが亡くなったのだそうだ)。
そのような地名を表した標識を眺めていて記憶に蘇ってくるのは、大学の英文科時代、英語言語学の授業で学んだ知識だ。教科書の文字と教授の声を追っていた当時は、そうした知識もどこか非常に遠い場所にあるものとしか認識できなかった。だが、こうして生きた事実として目の前にしてみれば話は全く別だ。月並みな言い方だけれど、学校や本を通じて取得した知識が実生活に生きてくる瞬間はやはりとても貴重なものだと思う。少なくとも、「だからこそ人間は勉強するのだ」という悟りにも近い発見を抱かせるだけの力が、これらコーンウォール語を冠した地名にはあった。これは今でも、僕がファルマスまでやって来て本当に良かったと感じている理由の一つでもある。
さて、そうやっていろいろ観察しながら歩いていると、手に持っていた僕のスマートフォンがブーッという音を立てた。ナビゲーションアプリが目的地への到着を知らせてきたのだ。顔を上げてみると、なるほど、一軒の民家が僕の目の前に立っていた。
石造りの塀に囲まれたごく普通の一軒家だった。この家の先には野原が広がっていて、隣の家もやや離れた場所にあったので、どうやらこれがロージーの家ということで間違いなさそうだった。
ただ、家の中には誰もいないようだった。塀からやや離れたところに立って眺めているだけだったので本当のところは分からないが、人の声はしないし、車も停まっていなかった。カーテンも閉まっていた。そこに誰かが住んでいることは確実だったが、僕が訪れたその瞬間には、眼鏡を掛けた目をいくら凝らしてみても、人の気配というものが全く感じられなかった。
「まあ、平日の夕方前だしなあ」と僕は思った。そんな時間帯なら働きに出ていてもおかしくない。
彼女やその父親がいつ帰宅してくるのかは全く分からなかったし、それまでここで待っているということもできないと思ったので(面倒だし、第一不審人物にしか見えないだろう)、僕は一旦その場を去ることにした。そして夜になってからセメトリーに行き、その日は収穫がなかったことをエレインに伝えることにした。まあ、もちろん、エレインは何と言うだろうかと思うと僕の心は相当重く沈んだのだけれど。
案の定、事の顛末を聞いた彼女の反応は、発狂寸前とまではいかないまでもかなり激しいものだった。ただでさえ青白い顔をさらに蒼白にして「これから行ってくればいいじゃない!」と金切り声を上げるその様には、「やっぱり幽霊って怖いんだな」と思わせるには十分の迫力があった。とりあえず、メイベルが、今からロージー家に向かったところでロージーの姿を見られるわけではないし、指輪をしているか確認するのも絶対に無理だと必死に宥めすかしてくれたたお陰でその場を何とか収めることができた。その代わり、何か吉報があるまで毎日通うようにと約束させられてしまった。
その後、おかんむりという様子で仲良しの幽霊たちのほうへ足早に立ち去ってしまったエレイン。その背中を見つめながら、僕は絶望と無力感の入り混じった気持ちで暫くそこに突っ立っていた。「毎日欠かさず見に行ったところでロージーに会えるとは限らないし、僕にだってささやかな仕事や予定はあるのになあ」という、憤慨も生まれてきていた。何だって、はるばるイギリスまで来てこんな難事を押し付けられなければならないのだろう。
ただ、意外なことに、一部始終をこっそり聞いていたほかの幽霊たちは大いに同情してくれていたらしい。メイベルも、「娘さんに会えるといいわね」なんて心配しつつ、彼女の生前の面白い話などをたくさんして気を紛らわせてくれた。それにつられて代わる代わる話し出した幽霊たちの身の上話も楽しかった。それは書くことを生業とする僕にとっては大変有難いことだった。
しかし、明くる日も、そのまた次の日も欠かさず「職務」を果たそうとしたものの、彼女はおろか、父親や他の人間の姿すら皆無だった。ひょっとするとどこかに引っ越したか、入院でもしているのかもしれないと勘繰るほど、とにかく人っ子一人見られなかったのだ。それでも、彼らが「いなかった」という事実を毎度エレインに報告しなければならない。彼女の機嫌は悪くなっていくし、僕もどうしたら良いやら分からないしで、頭の痛い日々が続いた。まあ、セメトリーに毎夜通う分、いろいろな幽霊たちから人生論を聞いたり、ファルマスについて情報提供をしてもらえたりという恩恵にもあずかったのだけれど。
さて、ロージー家の偵察を始めてから五日目の夕方、僕はいつも通りに商店街を出発し、彼女の家を目指していた。そのとき、「もしかしたら今日は、ロージーに会えるのではないか」という自信、または予感のようなものがあった。何故なら、その日は土曜日だったからだ。平日の日暮れ頃だと成功率が低いのも仕方ないが、休日ならチャンスがあるかもしれない。「今日と明日が勝負場だぞ」と僕は自分に言い聞かせた。
その日、彼女の家までの道のりを、僕はできるだけ無心に歩いていた。ロージーがいてくれればという希望はあったが、あまり期待し過ぎると失敗したときの衝撃が大きくなりそうだった。
それでも、ゴールに近付いてくると、気持ちがそわそわと浮き立ってくるのを抑えることができなくなった。今日を逃せばチャンスは明日、明日が駄目ならその後また五日間はミッションコンプリートの可能性が激減するのだ。さて、うまくいくかどうか。
あともう一ブロック曲がればロージーの家への道が見えてくるという地点で、ある変化が起こった。青黒い車が一台、角から滑り出てきたのだ。そういえば、普段のこの時間帯には人はもちろん、車を目撃することもなかった。そのため、車の往来が一台あるというだけでも大当たりのような気がした。「どうか、車があの家に入りますように」と、僕は歩行のペースを少し落としながら注視していた。握り締めた両手の拳には汗が浮かんできていた。ゴルフのホールにボールが引き寄せられていくのを、固唾を呑んで見守っている気分だった。
車は僕の望みをそのまま現実に映したかの如く、ロージー家の庭の中に吸い付けられるように入っていった。ほどなくして車のランプが消えてドアが開いた。中から出てきたのは、大柄な体格で、長い金髪を後ろで団子状にまとめ上げた女性だった。年の頃五十代半ばといった感じ。僕は生唾を飲み、息を殺した。「ロージーに間違いない」という確信が生まれてきたのだ。
車から降り立ったロージーと思わしき女性が、家まで大股に歩いて行くのが見えた。大きく開け放たれた玄関扉からは大きなむく犬が走り出てきて、彼女に飛び付いたり頭を擦り付けたりした。
何だか、エレインとは百八十度違う印象だった。引越しでもしていない限り、または人違いでもない限り、この女性がロージーであることには相違なかった。しかし、その豪胆な、いかにも肝の据わった欧米の中年女性といった風貌は、あのエレインの娘とはとても思い難いものだった。遠くから見ており顔立ちが判別しなかったという事情もあったけれど、本当にロージーで間違いないのか一抹の不安が生まれるほどには似ていなかった。
女性は家の扉を開けると、嬉しそうに吠えながら体に縋り付いてくるむく犬を愛情たっぷりに叱り飛ばしながら車のほうへ引き返した。そして車内に潜り、蛍光色のビニール袋の山を幾つか取り出しては無造作に地面に置いていった。どうやら、週末の買い出しから帰ってきたところらしかった。
相当大量に買い込んだのか、大きなビニール袋を両手に一つずつ持った彼女は玄関と車とを何往復かしなければならなかった。飼い犬はその間もロージーらしき女性の前をくるくる回ったり、袋の中を覗き込んだりしていたので、買い物を家まで運び入れるのも大変そうだった。
あともう一往復すれば買い物の搬入も終わり、という瞬間。ロージーが最後のルーティンを終えようとしていたとき、彼女が右手に持っていた袋に犬が激しく飛び付いた。するとその反動で袋からリンゴが勢い良く飛び出し、車道に向かってコロコロと転がっていった。そして、ちょうど僕の足元でぴったりと止まった。
何たる偶然。まるで神の思し召しともいうに相応しいタイミングで転がってきたそのリンゴを、僕は反射的に拾い上げた。顔を上げると、女性と目が合った。
僕は一瞬ひるんだ。が、僕が歩き出すより先に女性のほうが僕に向かってきて、女性にしては大きい手を差し出した。
「ありがとう、助かったわ」と女性。「ここ、坂道だから、リンゴなんて落としたらすぐに転がり落ちてしまっておしまいなんだから。」そう言って鼻に皺を寄せて笑ってみせた。赤ら顔で、エレインそっくりの鷲鼻で、右の目尻に小さなほくろ。エレインやブレアから聞いてきた情報と一致していた。間違いなく、エレインの娘ロージーだ。
僕は「You’re welcome」と返事をした。そしてリンゴを手渡した。そのとき、その手元を素早くではあるがしっかりと観察した。がっしりとした働き者の手であることが瞬時に分かった。しかし、指輪は、肝心の指輪は―彼女が差し出した右手にも、恐る恐る見た反対の左手にも―はめられていなかった。
顔中の血が一瞬にして引いていくのを感じた。しかし、同時に不審な振る舞いをしないように最善を尽くさなければならないとも思った。こうしたミッションでは自然が肝心だからだ。つまり、その場所をなるべく早く立ち去るしかなかった。僕は「Bye」と言って、ロージーの顔を振り返ることなく、まるで逃げ出すように家路を急いでいった。
ロージーはエレインの遺した指輪を身に着けていなかった。これを一体、エレイン相手にどう説明できるだろう。
僕はそのまま何も考えないようにしてフラットまでの道を足早に歩いた。頭の中は真っ白だった。書斎の椅子に腰掛けたとき、僕はどっと疲れた気がした。ロージーを見つけるというミッションには確かに成功した。運良く会話を交わすこともできた。しかし、エレインが最も望んだこと、ロージーが形見の指輪を身に着けているのを報告するという部分については、どうにも彼女の希望を叶えてやることはできなさそうだった。
ただ、それでもセメトリーに行き、成果について報告しなければならないのには変わりがなかった。夜になって墓地に向かう頃になっても、僕はエレインに一体どう説明、というか弁明をすべきかと途方に暮れていた。彼女がどう反応するか、それを考えると憂鬱で仕方がなかった。今度こそ興奮して手の付けようがない程に怒り狂うかもしれない、さらに無理難題を押し付けられるかもしれない。僕の足取りはとても重かった。
いっそのこと嘘を吐いてしまおうかという算段も思い浮かんだ。そう、「ロージーはあなたの指輪をきちんとしていましたよ」とエレインに言うのだ。僕が彼女に何と伝えたとしても、本人が自分で確認しに行くことは不可能なので、事実と反したことを伝えても現実的な問題は特にないだろう。
「うん、そうしよう」と僕は手を叩いた。エレインはただ、ロージーが自分を許したかどうかを知って安心したいだけなのだ。それならば、むざむざ真実を伝えて彼女を苦しめる必要もないだろう。
そう決断した僕は、家を出たときよりは少しだけ大股でセメトリーに歩いて行った。セメトリーに渡る横断歩道から、門のところでメイベルと一緒にエレインが立っているのが見えた。僕の報告を待ち構えていたのだろう。僕は腹を決めて門に向かった。
セメトリーに入ると、早速エレインが縋り付かんばかりに話し掛けてきた。「ねえ、今日はロージーはいたの?指輪はしていた?ねえねえ、教えて頂戴な。」その声は上擦り、青白い頬も心なしか上気しているように見えた。
僕には準備ができていた。説明のための言葉も用意済みで、二、三度程練習もしてあった。それなのに、何かがおかしかった。切り出せないのだ。やはり、良い知らせを今か今かと待ち侘びている相手を前に、ありもしない吉報を与えることはできない。それでいくらエレインの気持ちが救われるにせよ、虚実を伝えることはやはりできないのだ。しかもここは墓場なのだ。悪いことをするものではない。
僕は下を向いた。メイベルがはらはらしたような表情でこちらを見ているのが感じられた。
「やっぱり本当のことを話そう」と僕は決めた。制御不可能な震えを背中一面に覚えながら、僕はゆっくりと顔を上げた。エレインの期待に満ちた眼差しがまだ僕の顔に刺さっていて、痛々しいくらいだった。
「残念なのですが」と僕は口火を切った。大きな声はどうしても出なかった。「娘さん、指輪はしていませんでした。」
すぐ前まで輝かんばかりだったエレインの顔から光がみるみる消えていくようだった。握り締められた拳からも段々力が抜けていっていた。「ああ、やっぱり嘘のほうを言えば良かった」と僕は心底後悔した。でも、もう遅過ぎる。
「あの、でも」と僕は何とか続けた。指輪をしていないのは太ったからだとか、家の様子だとかを伝えることならできると考えたからだ。しかし、僕のしどろもどろな声はエレインのかん高い「No!」という声に遮られた。僕ははっとして口をつぐみ、エレインのほうを見た。ああ、またエレインがヒステリーを起こして、厄介なことになるのだろうか。
いや、違っていた。僕を見返すエレインの眼差しは至極穏やかなものだった。彼女はそれと同和するような静かな声で、「いいのよ」と言った。「でも、あなたあの子に会ったんでしょう?どんな感じだったの?元気そうだった?」
僕はほっとした。この質問なら僕でも自信を持って、罪悪感に苛まれることなく答えることができたからだ。僕は少し胸を張って、「はい、とても元気そうでした」と答えた。
「そう」とエレイン。彼女は静かに目を伏せた。その目にはうっすらと涙が浮かんできていた。その涙を手の甲で拭うと、穏やかに宣言した。
「あれからずっと考えていたのよ。あの子が私を許してくれたのかどうかをね。でも、色々あったけれどね、結局は元気でいてくれさえすれば良いのよ。それが一番なんだから。」
「ありがとう」と、エレイン。その顔には今まで見た中で一番澄んだ微笑みが浮かべられていた。僕に握手を求めて手を差し出してきた。だが、幽霊と人間とでは手を握り合うことは物理的に不可能だとすぐに悟ったのか、悲しさとおかしさが混じり合ったような微笑を一つすると、踵を返し、お喋り仲間のほうへ小走りで行ってしまった。
その背中を、僕はただ茫然として見送っていた。一切の悔いの残らない背中だった。
なんだ、ちゃんと悟っているじゃないか。
『僕のファルマス滞在記(仮題)』
序章:https://note.mu/rachelmirror/n/n3b91920eae85
第一章:https://note.mu/rachelmirror/n/n835f6505d113
第二章:https://note.mu/rachelmirror/n/nac4512af3f63
スピンオフ短編作品『ルーウィン(Llewyn the Cat)』:
https://note.com/rachelmirror/n/n1a9b47f84418
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