全財産10万円握りしめて上京、法人化するまでの1年(2021年12月加筆)
2019年2月は自分にとって経験のなかったターニングポイントで、この1年の出来事が走馬灯のようにいつでも思い出せるほど衝撃的だった。その中に悩んでいる人へ向けて背中を押せる内容もあるんじゃないかと直感で感じたのでドキュメントとしてこの一年をまとめることにした。
ありがたいことに上京してから出会った方にこの記事の内容をざっくりでも話していると書籍化した方がいいと自分が背中を押されることも増えてきたので手始めに入り口程度に1年間を振り返ってみることにした。半生を振り返るときっと1冊分にはなると思うけど幸せな着地点を作るまでは自分の中では書籍にする予定はない(笑)
→と思っていたけどありがたいことに某出版社さんから興味があるレベルではあるけれど出版をしてみないかと声をかけていただいた。今のところ自費出版になりそうだけど。
目次
2019年2月、離婚した
10日後には東京に
シェアハウス生活のはじまり
1日1.5万歩、23区を飛び回った3ヶ月
6月、上場企業での事業開発経験
9月、協業パートナー先のマネジメント職で開花
2020年2月、株式会社設立の目処がたつ
まとめ:事業の一発逆転はない。コツコツ自分だけのスキルを磨き上げる
2019年2月、離婚した
きっかけは中心性漿液性脈絡網膜症にかかり網膜剥離に似た状態で左目が見えなくなったこと。3年間育児と仕事を全力で走り続けた結果、2018年11月に発症して2ヶ月ほど仕事ができないほど重症だった。
通院するもストレスを減らすことでしか対処できないということで大病院でも診断される。そして2ヶ月すぎて少しずつ左目が見えるようになったタイミングで家庭内でインフルエンザが大流行、家族7人が述べ9回インフルエンザに罹ったため結局3ヶ月半まともに仕事ができなかった。
2012年から会社員美容師を退職しフリーランスとして美容師や映像演出をやっていたが双子が生まれる2016年前後のタイミングで働きに行ける状況でもなくなり、地方の山奥で未経験からでも仕事獲得できる唯一の方法であるWebエンジニアになった。リモートワークが自分にとってたった1つだけの選択肢だった。今でも後悔はしていないし完全燃焼した3年間だった。
それでも最後に子ども達の学校や保育園に挨拶に行ったとき、これまでのことやこれからのこと思いの丈を先生方に話していて不覚にも嗚咽してしまった。自分の不甲斐なさに悔しさしかなかった。
10日後には東京に
離婚して10日間は車中泊をしながら地元で最後の取引先である温泉施設のWebサイト改修をやっていた。事情を話すと詳しいことは聞かず、社長をはじめとしてマネージャー、スタッフの方が快く接してくれて温泉にも遠慮なく入っていきなさい、好きなだけ仕事をしていきなさいと施設と駐車場を解放してくれた。ありがたかった。ここの支えがなかったら本当の意味で人生諦めていたと思っている。
地元での最後の仕事を納品した次の日には成田空港に立っていた。荷物はバックパッカーとスーツケースに仕事道具と最低限の衣類と生活用品を詰め込んだだけ。住まいは荒川区のシェアハウスに決めることができた。他のことは何も決まっていない。
初日の宿泊先である渋谷のゲストハウスへの途中、普通に歩けば一本道に平地なのに
Google mapの使い方に慣れず、道玄坂に迷い込んで真冬なのに汗だくになり意識朦朧となりながらベッドに倒れこんだ。東京に来ただけで0から営業するところスタートだった。
残ったのは取引先からの最後の報酬10万円と3年間で積み上げた借金だけ。
「後日談」
初日である2/21が再スタートの日として忘れられない日になったので法人設立日に選んだ。
シェアハウス生活のはじまり
家賃3万円でも住めるだけありがたいと思ったし、地下もあるから仕事できるという触れ込みだったのでしばらく集中できると思っていた。ところがそんなに甘いものでもなく、引きこもりVtuberに初日から絡まれることで揉め、シェアハウスで仕事をすることは諦めた。さっそくカフェに行くようになる。
収入の目処がつくまではとにかく生き延びなければならないとカプチーノだけで半日仕事をする日々だった。日暮里駅のエクセルシオールが最初の職場だった。時期的に受験生が一生懸命勉強していた空間にいられたのは少しなりとも励みになったりしていた。
1日1.5万歩、23区を飛び回った3ヶ月
離婚した2月にパパママが育児しながらでも現役水準で働ける環境を作りたいとコミュニティRemoCAをスタートさせていて、30人ほど参加いただけながらプログラミングを教えたりしていて仕事ができるようになるまでナビゲーションができたり、実際にメンバーに会って話を聞かせてもらえたりしてフリーランスの働き方について色んな課題が見えてきた。
就職したくても色んな事情で会社勤務ができないパパママさんも多くいた。自分もそうだったけど、ただ諦めるのではなくて何かしらアクションしていけば答えが出るかもしれないと考えてとにかく色んな人や企画に顔を出して回った。自分なりの1つの答えはフリーランスでも個人からチーム展開することだ。というところに行き着き裁量で動くフリーランスでもチーム展開することでより多くの報酬を得る機会を作りたいと昔作っていた別コミュニティをフリーランスギルドCreddとして再定義したのもこの時期だった。作業場所としてYahoo!ロッジにお世話になっていて、毎週の交流会がきっかけで今でもお付き合いさせていただいている個人や企業も出てきた。
この頃になってパートナーができた。何も知らない人からすると離婚して早々にパートナーとか節操がないと言われそうなものだけど、自分の場合は特に1人では生きていけない人間だということをよく自覚できたから必然の選択だったのかもしれない。
これまでのことを全部話してお互いの頃を知ろうと毎日話をしていた。日によっては5時間外を歩き続けてLINE越しに話をしたりもしてお付き合いするに至った。さすがに結婚へは即決はできないけど中途半端なことだけはしたくないのでご両親に挨拶させていただいた上で今は一緒に住んでいる。
吉祥寺と荒川を行ったり来たりしてケンカもしたりしながらでも向き合ってきてようやく人らしく生きられるようになってきたように感じた。相手を思いやる気持ちが今までは上っ面なだけだったからダメにしてしまってたんじゃないかって気づかせてもらえてパートナーにはおつきあいさせてもらっている当初からずっと感謝し続けている。
上場企業での事業開発経験
RemoCAとCreddのそれぞれ団体として動き出して最大70名ほどになったタイミングでとある上場企業が新規事業として始めるプロジェクトへの参加希望を出したところ面談していただけることになった。ひょんなところから事業の方向性が自分の方向性と近いこともあり、業務委託という形ではあるが事業開発を経験させてもらえることになった。
ありがたいことに参画当初はシステム開発のお手伝い程度でもさせてもらえることになり、エンジニアとして戦力ではなかったけどプロジェクトを俯瞰で見る経験ができたことはとても大きかった。
それまではWordPress開発としてPHPが主体だったけどVuejs、Rails、AWSなどWebアプリケーションの経験が入り口でもできたのは大きかった。後半はアクセス集計や解析、事業方針への企画出しも少しながらさせてもらえたことで今の自分の土台ができたと感じている。
3ヶ月経つ頃には少しずつ自分の展望とずれてきたので契約更新しないということ両者合意して次に進むことにしたけど感謝するばかりだった。
この頃に2番目の妻から「娘が会いたがっている」連絡がきた。もちろんパートナーにも話をした。普通だったら自分だけを見て欲しいと思ってるだろうに真っ先に会ってあげてと言ってくれた。その時は嘘だとしても嬉しいと思っていた。後になって話をしても今でも変わらず変わらないことを言ってくれるので救われている。ずっと後ろめたい気持ちでいたところが溶けたような気もした。ここまで支えてくれるパートナーを幸せにしないとバチが当たる。それくらい目の前の出来事として集中できる環境にしてもらえているおかげで余裕が生まれ、全体を俯瞰で見られるようになってきた気がしている。
協業パートナー先のマネジメント職で開花
全てが繋がるんだなと感じた9月、プロジェクトマネージャーを探している企業とのご縁があり複数抱えるプロジェクトを円滑に回せるように、また事業開発者目線としてクライアント様と開発チームそれぞれの最適化をするマネジメント職が主な仕事になった。
単に職種を足して新しいサービスを作ろうとしていたのがうまくいかなかった理由がわかった気がして、多様な仕事の中で自分が得意とする武器になりうる仕事を要素に分解して(話をするのが好き、段取るのが得意とか)いくと、これまで見えなかった自分の特性が見つかった。
社会人になってやがて20年、美容師の頃にサロン店長や大学病院サロンの立ち上げをしたり、演出家としてイベントやプロボクシングの興行プロデュース、百貨店レストランや老舗ホテルでデシャップ(厨房とフロアのマネジメント)経験が15年ほどあることから自分にはマネジメントの素養が経験値として相当積み重なっていたことに気づく。実際に地元に帰省して娘に会った時に元妻から「ようやく生き生きできている姿が見れてちょっとホッとした」と言ってもらえた。B型同士で何か第六感的なものを見ていたのかもしれない。娘もハニカミながら喜んでくれていた。養育費もようやく安定軌道に乗せられそうになってきた。離婚して長年頑張ってくれているので何としてもこれまでの分を取り戻して上乗せしていきたい。また一個、原動力になるきっかけをもらって帰京した。
いったん得意な領域が見つかると、一般的な弱者(資産的、社会的に)のとる戦略は一点集中することというのはフリーランス経験7年間で十分すぎるほど味わってきた。だからエンジニアとしてコードをかく仕事をメインにするのはやめた。システムやアプリ開発をするのは天職と感じるほど好きでたまらないことだけど自分が稼ぐための手段としては今ではない。
ジェンダーギャップ改善を目指すきっかけ
元々男らしくあれという価値観が強烈に受け入れ難く、かといってトランスジェンダーでもない、ただ見た目を中庸でありたいというのが東京に来てようやく実現できている。
それは父親であるべきというより男性でいながらママ目線で寄り添う形として変えていきたいと活動していた頃に気づき、そういう想いの行き場所として着地したところはジェンダーを感じさせない生活環境の提供がしたいとなった。これが今の風貌だったり自社プロダクト開発の素地に繋がっている。
それが秋くらいだった。今思うと見た目の転換をすることで自分にとって色んな意識や価値観を変えることになったターニングポイントだったように思う。
内面的な話でも、一時とはいえ育児に主体的に取り組む中でママさんがどれだけ大変なのかを垣間見た。ジェンダー差によっても待遇がこんなに変わるのかと愕然とした働き方もリモートワークで経験した。こんなことが当たり前な世の中なら結婚したい人も子どもを産みたい人も増えるはずがないとすら思っている。これは話しだすと長くなるので別で書きたいと思う。
今一緒にいてくれるパートナーは真っ先に幸せにする。そして、これまで関わって来てくれた大切な人たち、子どもたちの誰の幸せも諦めない。
それはこれからもどんどん育っていく想いになっているからこそジェンダー格差をなくすことは自分の仕事への取り組みとしても重要な指針になってきた。
2022.10月
→さらに踏み込んでみたら自分はジェンダーの揺らぎに元々からいたのかもしれないと思い返せたことがあった。ここは別でまた書いていこうと思う。
2020年2月、株式会社設立の目処がたつ
いろんな人と出会い、企業や行政との引き合いも増える一方になり仕事の規模も大きく自社サービスとしてクラウド上にギルド編成、契約に特化したプラットフォーム開発の目処も立ってきた。なる一方でIT開発の働き方における社会問題も見えてくるようになってきた。
*2020年には↑プラットフォームは今じゃないってことで働き方をアップデートするプロダクト開発に切り替えている。
とはいえ元々信頼貯金を増やしてこなかった自分が急成長したにしても社会的な信用にはまだまだ道のりが長い。そのため12月からお願いしている税理士の先生に相談して株式会社設立をすることを優先することにした。自分なりの覚悟の作り方として。
もちろん株式会社はスタートでしかなく、設立からの2年で資金調達のオファーがいただけるまでしっかりと事業を育てていくまでが当面の達成目標になった。
まとめ:事業の一発逆転はない。コツコツ自分だけのスキルを磨き上げる
1年間に起こった出来事で覚えている限りを洗いざらい書いた。人や会社の関係するところはやんわりとした表現になっていることもあるけど想いの丈も書いた。1年の中でこれだけの経験をすることは稀なのかもしれないけど自分の中では変化具合としてまだ想定内に収まっている荒波な人生だ。というのが率直な感想だ。
結婚を3回してそれぞれを全力でコツコツ積み重ねてきて、それでもうまくいかず身も心もボロボロになった2019年2月だったけど一貫して変わらないことがある。それは「継続」する一点に尽きる。どんなに辛くても自分がこうと決めたことは継続している。周りの同期が合理性や現実目線で事業をどんどん諦めていく中、自営業のスタンスだけはずっと続けてきた。自分で仕事を作るんだという信念はずっと曲げずにやってきた自営業7年間だった。
目の前の売り上げが立たなくても目先の収益だけにとらわれずに長期目線で働き方を立案して実現し続けてきたし、イレギュラーのオンパレードである育児の中でも子どもたちの寝顔を栄養剤にしながらプログラミングをしていた時期もあった。子供を抱っこしながらオンライン講師をしたこともある。
*↑オンライン講師のときに1番熱心な生徒さんがいらっしゃったのをずっと覚えていて、5年経った2021年にTwitter上で偶然再会、今では弊社の仕事をお願いする関係になったことも別の機会で話したい。
今もこうして夜中の3時にこの文章を一気に書き上げたりもしている。今書かないと後悔する気がしていて。
決して自分の経験を卑下したり、自慢したいわけではない。みんなそれぞれ自分自身を諦めてしまいそうな時は山のようにあると思う。それでも自分を諦めずに足掻いていればいつかは芽が出る日は来るんだよということを伝えたくて書き連ねてみた。
離婚を3回すると当人に問題があると後ろ指刺されることばかりだけど、それでもみんなを幸せにしたいんだって諦めずに頑張り続けている人もいるんだってことも伝えていきたいと思っている。
コロナをきっかけに1人で心が折れそうな理不尽に見舞われることが多くなった世知辛いこの世の中で支え合うことができる社会であるように、まずは自分の経営する会社からアップデートされた働き方を提供している。
頼ってきてくれた人には初めましてでも全力でお話聞きたいですし、何か少しでも背中を押せる縁になればこの記事を書いた役割を果たせるのかなと願っています。
*余談
カバー画像に写っているのは弊社の現取締役でもあるパートナーと成田空港にて2021年12月撮影。3年前に上京した時は一人ぼっちで2月の寒空に小雨で打ちひしがれていた絶望スタートでモノクロな世界だった。当時を思い出すなって感じながら3年越しに来た成田空港はカラフルな世界になっていた。この色とりどりな世界をずっと大事に育んでいきたい。
#エンジンがかかった瞬間
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