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【昨日を歩こう:2ヶ国目】ボスニア・ヘルツェゴヴィナでオシムさんの足跡を

先日テレビを見ていたら、とある学識経験者が「平成がそろそろ終わりますが、平成の時代の間で良かったことは何でしたか?」というテレビキャスターからの質問に対して、「日本で戦争が起きなかったことが、何より最も良かった。本当に良かった。」と熱い口調で答えていました。

確かに平成の間に、未曾有の大災害は何度か起きたけど、人的な大規模な被害はなかったですね。バブル崩壊やリーマンショックなど、経済的に大打撃を及ぼす人的な大問題はあったけど、戦争に比べれば、まだマシってとこでしょうか。

しかし、平成の間、世界を見渡すと、「えっ!最近なのにこんな酷いことがあったの?」って、思うくらいの戦争があちらこちらで起きていました。

今回はその中のひとつの国を取り上げます。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

なんとなくこの国名を聞いたことはあるでしょう。東欧にある旧ユーゴスラビアの国です。

1990年代は、旧ユーゴスラビアからの独立問題で、頻繁にテレビで悲惨な状況が取り上げられていました。

冒頭から、いきなり話が脱線しますが、当時ファミコンで「燃えろプロサッカー」というゲームソフトがありました(※「燃えろプロ野球」は大ヒットでしたが、サッカー版は知る人ぞ知るちょっとレアなゲームでしたね)。個人的に、そのゲームにハマってました。

このゲームで、ほぼ100%近くゴールできるシュート技を友達と見つけて、その技を「ボスニア・ヘルツェゴヴィナシュート」と名付けて、このシュートを打つ回数の制限を決めて、友達とよく対戦していました。

うる覚えですが、こんな殺人的なシュートないよな!と友達と会話をしているときに、殺人的といけばボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争だよなという話になり、その後「ボスニア・ヘルツェゴヴィナシュート」と名付けたんだと思います。

ということで、そんな残虐で殺人的に思えたボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争について、振り返って見ましょう!

“ボスニア・ヘルツェゴビナは旧ユーゴ連邦を構成した共和国の一つ、約430万人の人口の民族構成はムスリム系44%、セルビア系33%、クロアチア系 17%だった。旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中、1992年4月、同共和国の独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。”(外務省HPより引用)

日本で例えるのは非常に難しいですが、最近公開された映画「翔んで埼玉」のリアル版みたいな感じでしょうか?そう、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はリアルに起きているので、平々凡々に生きていた自分にとっては、ほんと信じられない戦争でした。

また、ボスニア・ヘルツェゴヴィナといえば、ジェフ千葉&元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムさんですね。サラエボはオシムさんの出身地であり、今も住んでいるそうです。このオシムさんも、ユーゴスラビア分裂に人生を大きく変えられた1人ですね。

オシムさんは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の中、当時ユーゴスラビアの代表監督をやっていて、そこからどんな思いで辞める決断したのか、想像を絶しますね。

あと、最近だと、ロシアワールドカップ直前に解任されたヴァヒド・ハリルホジッチ元日本監督の出身地でもあります。

と前振りが長くなりましたが、いよいよ本題。

ずっと行きたかったボスニア・ヘルツェゴヴィナにようやく行けたのは去年。国境付近には何度か行ったことがあったんですが、遂に入国!

サラエボに到着してまず驚いたのが、観光客が多いことなんの。

欧米人が多く観光で来ていました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナっていうと、なんかまだどことなく暗いイメージがありましたが、他の東欧諸国となんら変わらない。イスラム教徒の住民が多いので、基本的にキリスト教圏であるヨーロッパにあっては異色の旅行情緒を満喫できるエキゾチックな雰囲気が、欧米人に受けているですかね。

オシムさんの足跡を辿ろうと、オシムさんの写真が飾ってあるレストランでご飯を食べて、

さらに選手そして監督としてキャリアを始め、チーム最大の偉大なレジェンドとして讃えられているFK Željezničar Sarajevoのスタジアムを見るなんてのは、個人的には楽しみのひとつでした。

でも市内を東西に横断する幹線道路の一部が通称スナイパー通りといわれていて、スナイパーが打った銃弾跡など、第二次世界大戦以降最大の戦争と言われるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡がまだ多く残っていました。

また、サラエボの中心部から少し西にいったところにあるトンネル博物館は、サラエボを取り囲む丘陵地帯に配置されたユーゴスラビア人民軍に包囲され孤立していた(サラエボ包囲)ボスニア軍が物資や人を運ぶために掘ったトンネルの一部を博物館として公開しています。空港の真下を通ってここまで全長800mのうち、このトンネル博物館では25mを実際に歩くことができます。トンネルに入る建物には砲撃の痕が多数あり、戦争のすさまじさを実感することができます。

たぶん民族間の根深い問題はまだ解決していないと思うけど、こうしてオシムさんの足跡や戦争のすさまじさを、サラエボで実感しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ発展のために、これからより観光に力を入れていきそうですね。

ここがオススメ!

ハリル元日本代表監督がプロサッカー選手&監督としてデビューし、その後のキャリアの礎を築いたボスニア・ヘルツェゴビナ南部のモスタル(Mostar)。

ここもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激戦地で世界遺産の橋も紛争時に壊されており、今あるのは改修されたもの。

観光名所はこの橋とその周りだけの小さなエリアだけど、趣深く、橋を見ながらゆったりとした時間が過ごせるオススメスポットです。

ちなみに、モスタルに行ったときは、この歴史ある橋の下で、オーケストラコンサートがありいい時間を堪能しました。

モスタルは、いまやクロアチア最大の観光地となったドゥブロヴニクが比較的近いので、ドゥブロヴニク観光のついでにも立ち寄れますよ。

また、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに行きたいな〜

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