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ミス・ビアトリクス・ポターを想う~野ウサギたちが遊ぶ森で~エッセイ2300字

  優しさだけで出来ているような、なんて毒気のない映画なんだろう。人を傷つけようとする意地悪な心が、まったく介在していない。どこを切り取っても、優しさが感じ取れるなんて。

 動物を友として愛した孤独な少女は、偉大な絵本作家となり、イギリス湖水地方の美しい風景を、全力で開発から守るのです。

There's something delicious about writing the first words of the story.
You can never quite tell where they’ll take you.
Mine took me here.

 最初のこの台詞で私をすっかり虜にしたのは、世界中で愛され続ける絵本「ピーター ラビット」の作者、ビアトリクス・ポター氏の半生を描いた、「ミス・ポター」という映画です。映画ならではの演出があり、史実との相違点もあるとのことを最初にお断りしておきます。私の理想像である彼女を、愛を込めて、以下「ミス・ビアトリクス」と呼ぶことにします。

 この映画に初めて出会った時、何度も何度も(本当に、何十回も)、台詞を丸暗記するほどに、この映画を愛してしまうことになろうとは、思ってもみませんでした。

 冒頭、作品が初出版されることとなり、ミス・ビアトリクスは、公園を馬車でドライブします。御者に、「Faster!」と二度も叫び、公園を駆け抜ける馬車に揺られながら、ミス・ビアトリクスは、絵の中のピーターに語りかけます。

You see? We cannot stay home all our lives.
We must present ourselves to the world.
And we must look upon it as an adventure.

 馬車の窓から顔を出し、まぶたを閉じて、新鮮な空気を吸い込みます。女性が社会に進出することに、強い制限があったこの時代。かけがえのない友人であるピーターと共に、自分の意志で行動し、出版を決めたミス・ビアトリクスは、自身を狭い鳥かごの中から解き放つのです。ミス・ビアトリクスの冒険が始まるこのシーンが、大好きです。

 出版担当のノーマン・ウォーン氏は、繊細で、ちょっと抜けているところもあり、とても優しい性格。ミス・ビアトリクスとすぐに恋に落ちるのも納得です。ノーマンの姉、ミリーとミス・ビアトリクスは意気投合。親友となります。前衛的でユニークな性格のミリーは、主人公として映画を作ることができるのではないかと思うくらい、とても魅力的な人物です。

 この映画のメインテーマの一つだと思うのが、自由を求めるミス・ビアトリクスと、それを頑なに許さない母親、ヘレンとのバトル。ミス・ビアトリクスの出版も、商人であるノーマンとの結婚も、全身全霊で否定。現代で言うところの「毒親」なのでしょうか。最終的には、経済力をつけたミス・ビアトリクスが家を出ることで、分かり合えない二人は別の道へ。

 湖水地方、ウィンダミア湖のほとりで過ごす夏の休暇の間、ノーマンとの気持ちが冷めなければ、二人の結婚を認めると、両親はついに折れました。しかし、休暇が終わる前に、ノーマンは病に倒れ、天国へと旅立ちます。

 食べることも、眠ることもままならなくなったミス・ビアトリクスは、狂ったように絵を描き続けます。絵筆にすがるジェレミー・フィッシャーどんが、ミス・ビアトリクスの顔に驚いて、絵筆を離して池に飛び込むシーン、何度見ても、辛いものです。

 ノーマンの死をきっかけに、湖水地方への移住を決めたミス・ビアトリクス。この時、彼女は既に大作家となり、安定した印税により、経済的にも完全に自立していました。

 I must make my own way.

 その財力を、ミス・ビアトリクスは、惜しみなく環境保全へと注ぎます。開発の波が湖水地方を包囲していた、産業革命の時代。ミス・ビアトリクスは、オークションで次々と農地を落札するのです。この潔さ。何度見ても、胸が熱くなります。

 湖水地方の豊かな自然が、ミス・ビアトリクスの悲しみを、少しずつ、少しずつ、癒していきます。濃紺の湖、可憐な草花と、美しい木々。吹き渡り、薫る風。彼女は、再び絵を描き始めます。

 圧倒的な優しさ、強さ。その後ろに、失った愛に起因する、完治しない心の傷が垣間見え、時折、胸が締め付けられるような思いに駆られます。

 ミス・ビアトリクスは自然の中をひたすらに歩きます。清澄な空気を肺一杯に吸い込み、木漏れ日をまぶたに受け、優しい微笑みを湛えます。

Now, the road!

 ミス・ビアトリクスが散歩の時に身に着けている、茶色のニットのショールに憧れて、何度もかぎ針編みに挑戦するも、挫折してばかりです……。

There's something delicious about writing the first few words of a story.
You can never quite tell where they take you.
Mine took me here. Where I belong. 

 心の故郷に辿り着かせてくれる物語を、私も必ず生み出したいものです。
 ミス・ビアトリクスは、私のロールモデルです。卓越した観察眼と画力、そしてストーリーテリング。枯れることのない愛。農場を買い取る潔さ。風にしなる樹木のような、心の芯の優しさ、強さ。

 ウィンダミア湖は、私にとってまさに聖地。5年以内には、ぜひ訪れたいと思っています。

 このエッセイで、少しでもミス・ビアトリクスのことを知っていただき、絵本の中の、彼女のかけがえのない友人たちを身近に感じていただけたなら、それ以上の幸せはございません。

 野ウサギたちが遊びまわる森で眠るミス・ビアトリクスに、心からの敬意を表して。









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