散歩ができない
一日中家にいる日のほうが大半という生活を、かれこれ二年ほど続けていたら、体にエラいことが起きた。
体力の著しい消耗である。
先月くらいだったか、所用で朝早く電車に乗り一日中出先に滞在し夜電車で帰るという日があったのだが、帰宅するや否やほとんど気絶のように眠ってしまった。所用も肉体労働や運動ではなくほとんど椅子に座っていただけなのに。帰宅も深夜になったとかでもないのに(帰宅時間は夜の19:00頃だったと思う)
これはいかん。と思った。
なにせ、二年前であればほぼ毎日当たり前のように繰り返していた生活パターンで、当時そこに疲れや不都合はほどんどなくて。
二年前に当たり前だったことを、現在の自分の体が重労働と判断している現実を目の当たりにした。ショックだった。
それからというもの、私は特に用もないのに自分の家のまわりを徘徊することになる。
すこやかなる心身のため、あるいは失った何かを慌てて取り戻そうとする暫定対応。
2022年5月、ゴールデンウィークが明けた初夏の頃、
世間一般で言う「散歩」のはじまりである。
(ここまでがプロローグ)
思えば、これまでの人生で散歩をしたことがなかった。
あらかじめ決まった目的地があり、その徒歩移動のついでにちょびっといつもと違う道を通ったりちょこっと遠回りをしたことなら何度もある。誰かと会うことになり、その相手に「すこし散歩でもしようか」と提案され承諾したこともある。
しかしどのどちらも自分にとっては、目的地に行くまでのついでであったり、その人と会うこと自体が目的であったので、散歩そのものを純粋にしようと思ったことも関心を持ったこともなかった。
自分にとって身近な散歩好きは、父親と、獣の仕業劇団員のKである。
ふたりは散歩好きをたびたび標榜しており、私にも「散歩のなにが楽しいのか」「散歩をしていたらこんなことがあった」と伝えてくれる。私はふたりの人間性をそれなりに理解しているつもりなので、彼らが散歩を楽しいと思う理由も納得していたのだが、どうも共感まではたどり着かなかった。
「なにがそんなに楽しいのだ」と思ってすらいた。
そんな自分がいざ散歩をするわけだから、もうなにをしていいのかさっぱりわからない。「なにがそんなに楽しいのだ」とすら思ってしまっていたものだからちょっと恥ずかしい。
誰にも見られていないのにこそこそと家を出た。
とりあえず片道徒歩二十分ほどにある薬局に向かう。
店内に入り、そういえばトイレットペーパーが切れていたなと思って、購入する。
日が暮れてきたので、帰る。買ってきたトイレットペーパーを粛々と棚に補充しながら我に返る。
これは散歩ではなくてショッピングでは……?
ダメだ。散歩。全然やり方がわかんない。
なにせ、そもそも何もしたくないと思って生きてきたのだ。用事がなければなるべく家にいたい。家にいる状態を維持したすぎるあまりにそもそも用事を作らないことに人生の情熱の大半を捧げてきたのだ。なにもしたくなさすぎてこんなnoteをついさっき書いたばかりでもある。
こんなヤケクソに後ろ向きな記事を誰に頼まれたわけでもないのに堂々と一生懸命書いてしまうくらいだ。「なにもしたくない」ことをへの情熱ったらないのだ。用事もないのに家を出るという散歩という行動原理そのものが生理的に理解できていないのである。
むずかしすぎるよ、散歩。
どうして誰も事前に教えてくれなかったんだ、学校とかで。
しかし翌日またそれでも家を出る。散歩に出かける。
次の日も、また次の日も。
日々散歩の困難さを噛みしめればかみしめるほど、自分の内面に散歩への無闇な使命感が高まっていくのを感じていた。
散歩よ。お前のことがまったくわからない。
ならばなおさら、知らなければならない。
分からない・知らないという気持ちが興味への第一歩になりやすいタイプというのが手伝ったかもしれない。
「そもそも散歩って、そんな意気込んでやるんもんじゃないと思うぞ」という声が何度も父親の声で再生されたが全部無視した。「馬鹿だなあそんなことより宇宙戦艦ヤマト見ろよ、面白いぞ」と茶化してくるKの声も無視した。
意地になっていた。あきらかに私は散歩に対して意気込んでいた。この困難を乗り越え散歩を自分の行動様式として体得することでかならずやすばらしい気付きがあるはずだと自分自身を洗脳していた。
そうして始めの散歩から、ひと月が経った。
すばらしい気付きがあったかどうかは、よくわからない。
ただ半月ほど前よりスマホを持って散歩に出かけるのを辞めてから、なんとなく自分なりのここちよさに着地できそうな気がしている。自分にとって散歩とは今のところ、スマホが手元にない時間を強制的に作るための口実行動だ。
スマホを捨てて、町に出て、目的もなく歩く。今日はどこに行こうとか、何時までに帰ろうとかは決めておかない。周りの景色ひととおりが自分の所有物でないということに少し安心する。自宅にあるものは原則、自分の所有物が大半を占めているから。
夕方前に出かけるので、気がつくとつい夕日の方に向かって歩いてしまう。
住宅街よりも、川沿いや公園の方を歩くのが好きなようだ。
名前を知らない花を見つけて立ち止まり「知らないなあ」と思ったりする。手元になにもないので調べることはできない。
偶然立ち寄った図書館に吸い寄せられるように入っていって雑誌を読んで帰った日もあった。
これは散歩なのだろうか。
「散歩にただしいとかただしくないとかはないんだ」と父親の声がする気がする。
「そんなことどうでもいいだろ」とKの声がしないこともない。
明日はどこに行くのか。私も知らない。
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