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想月記|小説/作:現野未醒

 私のことなど、きっともうあちらではお忘れになって、清らかなままにお過ごしになっていることでしょう。こちらは、もう秋の夜長に白く大きな望月の昇る季節となりました。
 貴女が月へ帰ってから、どれほどの月日が経ったのでしょうか。私は相変わらず、月を見上げる度、貴女のことを想っております。きっと、永遠に想い続けるのでしょう。こんなに美しい名月の夜には、女々しくも、貴女のいらっしゃる月を眺め、こうして届かぬ想いに胸が痛むほど、貴女のことを想っております。
 私は、忘れることはないのです。
 
 貴女の噂を初めて聞いた時は、驚きました。大層美しいという貴女の噂を、誰も信じて疑わず、一目見ようと大勢の者が家に押しかけているとのこと。「帝」という私の身分故、誰が美しいだとか、器量がよいだとか、そういったことはよく聞くのですけれども、貴女の噂はどうも違って聞こえておりました。皆、貴女のことばかり話して、一体どのように美しいのかと聞いても、皆、とにかく美しいのだと見てもいないのに答えるのです。
 それから、石造皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂…貴女との、件の話。あれはこの宮中でも大きな騒ぎになっておりました。貴女は、石造皇子には、天竺にある仏の御石の鉢を、車持皇子には蓬莱の珠の枝、阿倍の右大臣には唐土の火鼠の皮衣、大伴の大納言は龍の五色の玉、石上の中納言には燕の子安貝を持ってくるように言ったそうですね。あるか無いかわからぬようなものばかりだというのに、貴女の願いにこれ程の者たちが動いたのですから、驚きました。石造皇子は煤けた石臼を持って、車持皇子は珠の枝をつくらせて行きましたが、貴女はそれを見抜いた。阿倍の右大臣は偽物を掴まされ、大伴の大納言は、五色の玉を勇んで取りにゆき、その過酷さから貴女を諦めた。石上の中納言は、燕の子安貝を取るために自ら登り、落ちて失意のうちに亡くなったという。
 普段であれば、美しい女性の話などを聞いても、特に気に留めなかったでしょう。けれども私は、どうもその噂に聞く貴女が気になって仕方がなかったのです。数多の男を惑わせるその美しさを、私は一目見てみたいと思うようになりました。貴女の美しさと共に囁かれる、竹から生まれたとの噂。その不思議な話も相まってでしょうか。噂を聞いてからというもの、少しの暇があれば、貴女のことを考えておりました。思えば、その時からすでに貴女に魅了されていたのかもしれません。
 私は、とうとう耐えきれなくなって、使いの女官に貴女の姿を見て来るようにと出向かせました。
 ややあって、女官が帰ってきたので、私は貴女の様子を尋ねました。女官が言うには、私の命じた旨をきちんと述べて、姫に会いたいと伝えたものの、貴女には会えなかったとのことでした。
 私は、諦められず、少々卑怯なことをしました。私は位を授けるから、貴女を宮仕えに出して欲しいとお爺さまに持ちかけたのです。他の女性と同じならば、きっとそれで宮仕えに来るはずでした。けれども、貴女は来なかった。そればかりか、お爺さまがいうには、「宮仕えに出ることになるなら、死ぬ」とも言ったのこと。私の命じたことに背くほど、頑なな意志を持った女性に出会うのは初めてでしたから、思い通りにならない貴女を、私はますます知りたいと思うようになっていきました。
 私は、貴女に会いに行くことを決めました。お爺さまもそれに納得してくださったので、日を決め、貴女の家に向かいました。貴女の家に着く前から、私の胸は高鳴っていました。今にその美しさを見ることができると思うと、居ても立ってもいられず、何度も御簾の間から外の景色を眺めておりました。
 貴女の家に着き、御簾の向こうに座る貴女の横顔をそっと覗いた時、私の手は震えておりました。そのお姿から、しばしの間目を離せずにいました。貴女の放つ輝きはまるで天に昇る望月のごとく清らかで、その黒い髪は艶やかに、衣の上で柔らかな線を描いておりました。私の衣擦れの音に気づいて、こちらを見て逃げようとなさる貴女の腕を、気がつけば掴んでおりました。そうして、貴女の顔を見て、思わず息を飲みました。その神々しさは、まるで天女の如く、その目の輝きは星空をそのまま映したようで、どんな人も、どんな宝や宝石も叶わぬ、眩いほどの美しさに目が眩むようでありました。
「手を緩めるつもりはない」
 私は、既に貴女を私の元から離したくなってしまっていたのです。貴女の輝きにもはや取り憑かれてしまったようでございました。
 貴女は少しの間戸惑いの色を浮かべ、それから、その艶のある唇を開きました。
「私はこの国の生まれではありません故、非常に連れておいでになり難くございましょう」
 薄い桜の色が射した白い頬、凛とした涼やかな表情の中には、どこか人とは違うものが感じられました。私の頭には、すでに貴女を手に入れることしかありませんでした。
「やはり連れて行こう」
 といって御輿の方に目を逸らした途端、貴女の姿は影のようになって見えなくなってしまったのです。寸の間、何が起きたのかわかりませんでしたが、竹から生まれたとの噂、それに、どこか人間離れした様子のお姿、立ち振る舞いに、妙に納得がいったようでございました。貴女はやはり、普通の人ではない類い稀な方なのだろう、と確信したのです。
「それでは、今日は連れていかない。だから、もう一度その姿を見せてくれ、それを見るだけで帰ろう」
 そう言うと、貴女はもう一度姿を見せてくださいました。
 貴女の輝き、神々しくも不思議なその美しさは、私の心の中で、いつまでも渦巻いておりました。宮中に帰ってどんなに美しいと言われる女性を見ても、かぐや姫、貴女に比べれば、なんとも思われないのでございます。ただひたすらに貴女の存在が恋しく、貴女に手紙を書いて、その返事の来るのを待つことだけが、私の生きる唯一の楽しみのように思っておりました。貴女のその文に込められた心こそが、私の、貴女に会えぬ日々の慰めとなったのであります。
 
 それから3年ほどが経ち、貴女がこの頃月ばかり見て思いに沈んでいらっしゃるとのことを聞き、いても立ってもいられず、使いの者を走らせたのでございます。
 使いの者は、急いで帰ってきました。その話によれば、かぐや姫、貴女は月の都からいらしたのだとか。私はそれを聞いてもはや驚きはしませんでしたが、その輝きの訳がようやくわかったような心地がしておりました。それから?と尋ねれば、使いの者は少しの間黙って、大変言いにくそうに、こう言ったのです。「秋の名月の一際輝く日に、月の都よりお迎えが来るのだそうです」と。私の頭の中は真っ白になって、しばらくの間、何も言えずにおりました。月からこの地までが、どれほど離れているのかはわかりませんが、すぐに会えるような訳でないことは、私にもわかりました。月に帰ってしまわれたなら、もう二度と、会うことはないのでしょう。それがわかっていながら、一体どうして私にもっと早く言って下さらなかったのか。そして、月の都の人よ、貴女をどうして、その愛する人から、私から離そうとするのか。怒りが沸々と湧き上がるとともに、悔しさがどっと押し寄せて参りました。そうして、月などに帰らせてなるものか、と奮い立ったのです。
 私はすぐに警護のものを呼び寄せて、貴女の家に向かわせました。貴女さえ守ることができるのなら、私はなんでもする。空に現れたものがあれば、全て撃ち落として、月からの迎えなぞ、貴女に指一本でも触れさせてなるものか、とただ、家の中に隠れている貴女のことだけを想って、丸い月の一際大きく輝いているのを睨んでおりました。
 宵も過ぎた頃だったでしょうか、一際空が明るく輝いて、貴女の家のあたりだけが強い光に包まれました。その眩い光に目が痛くなるようでした。けれども私は、国を守る者。何かがあってはならないと、宮中にて待つことを余儀なくされたのでございます。それ故、何もできず貴女の無事を祈るだけでありました。
 事の顛末を聞いたのは、大勢の警護が帰ってきた時でした。
 警護のものたちは一斉に弓矢をとって射ようとしたのですが、なぜか力が入らず、使いの者たちに当たるどころか、何の意味もなさなかったとのことでした。そうして、貴女はとうとう、月の使いとともに月へと帰ってしまわれたのでした。
 ただ、口惜しくて、悲しくて仕方がありませんでした。ああ、ついに貴女と結ばれることも、もう一度手を握ることもないまま、貴女は帰ってしまわれたのだ、と後で知ったのです。もう月は傾いて、空が少し紫がかって明るくなってきた頃でした。そして私は何もできず、見送ることすらできなかったのです。倒れそうな心地でありました。その別れに立ち会うことができたなら、どんなに良かったか。私がその場にいれば、何かが変わったのではないだろうか。どんなに悔いても惜しんでも、もう貴女はいないのです。
 月へと帰る前、貴女は、お爺さま、お婆さまの慰めのため、一心不乱に手紙を書いていたと聞きました。さぞかし辛い思いでしょうに、懸命に心を込めて、最後まで愛する方のために手紙を綴っていたのです。私は手紙にて貴女が優しい人だと言うのを知っておりました。だから私は、貴女が私の方に振り向いてくれなくとも、貴女が愛する方と一緒にいたいのであれば、私も幸せだと想っていたのです。私は、貴女の思いを考えて、胸が締め付けられました。
 それから、警護に携わった中将から、何やら紙と壺が渡されてきました。一つは、手紙でした。貴女の、最後に書いた手紙だと言うのです。そこには、警護の礼と、面倒な身の上ゆえに宮仕えに行かなかったことを詫びることが書かれていました。最後まで、人のことを思うその優しさに、私は貴女との文通の日々が思い起こされて、涙が紙の上に落ちて染みを作っていくのを、悲しみの中でただ眺めておりました。それから、やっとの思いで手紙の最後に差し掛かった時、歌があるのに気づきました。

「いまはとて天の羽衣着る折ぞ君をあはれと思ひ出でける」

 なんてひどいお方でしょうか。私には、今まで一つも、そんなこと仰らなかったのに。最後に、旅立たれる間際になって、想いだけ残して行くなんて。そんなの、あんまりだと思いました。ああ、どうして、どうしてそんなことをなさるのだ、と初めて貴女を憎みそうになりました。貴女のその思いをせめて知らずにいられたなら、と唇を噛みました。けれども、貴女がその想いをとどめたまま、月に帰らなくて良かった、とも思いました。天の羽衣を着ると、この世の人の心を忘れ、違ったようになるのでしょう? この歌は貴女の、人としての最後の思いだった、そう思うと一層悲しくなって、月を見ようと思って御簾を上げても、そこにはもう月は無く、ただ朝の虚しい空が広がっているだけでありました。
 
 それから、壺に目が止まりました。中将の言うには、これは不死の薬だと言います。貴女から私への、最後の贈り物だと言うのです。私は、壺を覗いて、暫くその中身を見ておりました。きっとこれは、中には喉から手が出るほど欲しいと思う人もいる妙薬。けれど私は貴女無くして、一体これから如何様にして生きていけば良いのでしょう。貴女のいない人生など、何の幸せがあるでしょうか。貴女に逢えぬまま、永遠に生き長らえることなど、苦しみしかないのに決まっています。貴女に逢えぬ苦しみを抱えて生きていくよりも、貴女との思い出の中で、一時の夢を見る方が、ずっといい。
 私は使いの者に命じました。この薬をこの国で一番月に近い場所で燃やせ、と。使いの者は、この国一高い山の頂で、薬に火をつけ、その全てを燃やしました。私は、宮中の変わらぬ空を眺めながら、細くたなびく煙が、山の高嶺から空の遠くに連なっていくのを思い浮かべておりました。貴女の折角の贈り物を灰にした、私をお許しください。
 けれども、私には、貴女無くして永遠に生きながらえることなど、それこそ地獄に等しいのです。
 
 愛していました。貴女の美しさよりも何よりも、貴女という存在がただ、今は恋しいのです。月の羽衣を背負い、月へと帰ってゆく貴女の姿を思い、胸の張り裂けるような気持ちでこの数年の時を過ごして参りました。ですが、貴女はきっと、月の羽衣を着たがために、私のことなどお忘れになっているでしょう。二度と届かぬこの思いに、今も心惑わされている私がいることを。
 貴女は輝き続けるのでしょう。輝きに満ちた月の世界で、永遠に美しいままに……
 
 ただ、変わらぬ愛をもって、今宵の名月を眺めております。そちらからは、こちらはどう見えるのでしょう。届かぬ想いばかり、募ります。
 


作:現野未醒

この作品は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」学祭号に収録されています。

今年1月3日から1月7日の間、学祭号書き下ろし作品を順次投稿しています。

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