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紀政諮「嫉妬なんかと一緒にするな」前編

 差別とか、いじめとか、ストーカーとか、そういうのをやたらと歌うアーティストがいた。新人オーディションの時、審査員はこう批評したらしい。「わざわざそんな特殊なテーマを選ぶ意味はあるのか。過剰な一般化じゃないか。軽んじていないか」
 アーティストがメジャーデビューを果たした日、そのエピソードを知って、リスナーのある男は思った。
「実際にありふれているから、仕方がないじゃないか」と。
 差別とか、いじめとか、ストーカーとか、そういうありふれた地獄は、己を振り返り、友人を作り、恋人を作ると、面白いくらい手の届く範囲にある。感覚が麻痺していく。皆、自らの抱える阻害を認識する時代。マイノリティがマジョリティである時代。
 四限が終わって、BOXへ向かう途上、そのアーティストの曲を聴く。男はイヤホンの音量ボタンを押した。
 +。+。+。

 ——いつもの花びら いつものやめたい
  いつもの雨雲 いつもの夜風
  同じ次元でキスをして
  違う次元で生きていた
  きらい

  風に 僕らが散る
  汗に 毒が走る
  糧に なれるくらいなら
  僕はここで生きたい

  ポップなロックに 手をあげない
  デモやタグに手はとられない
  好きな人も僕だ 好きな歌も僕だ
  みんな好きなんだ
  生み出した孤独が
  ショックはとっくに でも下げない
  風の花びらは 過去が嫌い
  ただの嫉妬と一緒にするな
  嫉妬なんかと一緒にするな

  風に乗って
  乗る風は間違えない
  僕の風の強さでいいや
  夢を食って
  食う夢が間違いでも
  僕の愛の強さでいいや

  君も嫉妬してもいいや——
 
 十二月二九日。さむ。BOXを出たくない。
「マジ今年の紅白ありえねえ。あんな男なのか女なのかよくわからん連中、日本人の誰が見たいってんだ」
 意識しない限りサークルの本来の目的なんて思い出さない。BOXは、基本的に、部員が身を寄せあって個人的な共感欲を満たすための溜まり場。
「オレさあ、最近のメディアの韓流推しがマジ気持ち悪くってさあ、推しっつうか、押し売り? だよな、もはや」
 こういう奴と友人であり続けるコツを掴んだのは、まあ、そんなサークルに入り浸っていた功罪の功の一つだ。
「けどまあ数字は持ってるんでしょ?」
 反論の余地を与えて、とにかく永遠と、別に正しくないことを自ら語らせる。そうすれば、あとから煙に巻くのが楽になる。
「いや、そのりくつはおかしい。金田靖志かなだまさしくん、そもそも韓流ブームっていうのがな——」

 窓を流れる夕焼けと共に、記憶がイヤホンの旋律に刻まれる。
 学校帰りの電車で聴いていた音楽が、その時代の自分の主題歌になる。あのアーティストの新曲が男に刺さる打率はだいたい六割くらいで、今回のは傑作だった。周りの乗客に配慮して、音量ボタンを押す。
 ー。ー。ー。

 ——ポップなロックに 手をあげない
  デモやタグに手は とられない
  好きな人も僕だ 好きな歌も僕だ
  みんな好きなんだ
  生み出した孤独が——

 全国民をターゲティングした年末番組みたいなのは、うまくいかない時代になってきた、というのが男の仮説である。皆、それぞれの推しを推している。同じ世界の国民みんなが熱狂するコンテンツなど、なかなか生まれない。だからさっきの部室での会話みたいなことが起きる。自分の知る世界では流行っていないというだけで、それが流行っている世界が併存していることを認められない。
 メロディが到着をしらせ、開く扉。踏む点字ブロック。ポッケから財布を出して改札にタッチ。歩いて、視界がひらける。再開発事業に失敗して寂れた郊外。駅前広場は閑散としていた。中心に設置された大画面のテレビが、圧倒的な場違い感をまとっている。
 マイノリティであることが当たり前になった。あのテレビはその変化の象徴だ。
「続いてはこちらです。今年の紅白喉自慢に出場予定の韓流アイドルグループ『プロジェクト・ピンク』略して『プロピン』のセンター、金日仁キム・イリンさんを独占取材!」
 マジョリティのため用意された舞台は、今や、マイノリティのパッチワークで客寄せする装置でしかない。そんな世の中だからこそ、自分のようなマイノリティもある程度は生きやすい。男はテレビ画面の、誰にも見向きもされない情報番組のキャスターに感謝した。感謝して、スマホの音量ボタンに手をかけ、遮断した。
 +。+。+。

 ——風に乗って
  乗る風は間違えない
  僕の風の強さでいいや
  夢を食って
  食う夢が間違いでも
  僕の愛の強さでいいや

  君も嫉妬してもいいや——

 歩く。歩く。好きなアーティストの歌う、好きな嫉妬の歌にのせて、歩く。そうすれば、嫌いな自分の嫉妬すら、好きな嫉妬と一緒のように思える。だから、歩ける。水路にかかった小さな橋を越えると、一軒のマンション。ここに来るのは今週の月曜日ぶり。自宅じゃないのに、「ただいま」を言いに来る場所。
 イヤホンを耳から外して畳んでポッケにしまう。部屋番号は覚えている。
 X。X。X。
「は〜い、どうぞ」
 声。多少のモーターの駆動音とともに、解錠の音がした。一階の自販機で栄養ドリンクを買おうか一瞬迷って、やっぱいいやとエレベーターに乗る。一刻も早く、もっと栄養価の高い場所に行きたい。ちん。扉が開く。廊下を五歩程度すすんで、ドアの前、もう一回インターホンを押した……と同時に、ドアが開いた。
「おかえり、ジョンシ!」
 彼の名前は金靖志キム・ジョンシ。ここは、マイノリティの自分が受容される場所。

 芯の強いひと。たとえば、コンカフェでお給仕を稼ぎ、自力で下宿生活を送っている。一刻も早く親元を離れたかったから、家賃の支援はしないという脅しに屈さず、自分で低価格物件を探しあてた。こんなにも寂れた土地に住んでいるのはそのせい。それでもめげずに大学に通い、職場に通い、サークルで恋人を作った。そんなひと。
 だから、というわけじゃないが、そんなことも理由となって、尊敬できた。ほぼ、完璧なひと。完璧すぎて、ネットストーカーだのなんだのの悩みが絶えない。好意も嫉妬も買いやすい。それで発生する不安に寄り添ってやるのが男の存在意義だった。ほぼ、完璧なひと。たった二点を除けば、完璧なひと。
「コートそこに掛けといて〜」
 一つ目の欠点は、自分などというものを恋人に選んでしまったこと。男はそれを素直に受け入れられないでいた。
 自分を愛せないものは人を愛せないなんていうのは嘘だ。自分を愛せないものは、本当は、出力する愛しか感知できなくなる。自分に入力される愛が素直に目に入らなくなる。そんなことも、きっと大きく作用していた。二つ目の欠点は……
「ねえ見て、この日仁イリンくんヤバい! スタイリストさんわかってるわあ〜。むり。しぬ」
 しね。彼女にじゃない。余計な仕事をしたスタイリストに、心から、心で毒づいた。ずうっと一緒に、まったり過ごす年末年始――この番組さえなければ、最高に贅沢な休息なのに。
 家事は分担している。ちょっと、意地悪をするつもりも込めて、掃除機のスイッチを押した。
「そうだね」
 +。+。+。

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