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『〈責任の生成〉ー中動態と当事者研究』について

終始、唸りっぱなしの名著でした。

対話を通じて、泰山北斗のお二人の研究が同期し、調和し、新しい境地に到達する軌跡を見せられている感じ。

國分さんの『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界一意志と責任の考古学』や、熊谷さんの当事者研究の続編に位置する内容でした。

特に、國分さんの前作の読後に漠とした疑問を抱いていたのだけれど、本作で「中動態が『すべての』救いの場ではない」と話されていたので個人的に腑に落ちたところがあります。

と同時に、当事者研究の具体的な事例を提示されたことで、中動態という物事の捉え方を持ち合わせているかどうかが現象への対峙の仕方を以前と全く異なるものにすると実感し、ネオリベ的な「自己責任論」がつきまといがちな社会には、意義深い概念だと改めて思いました。

OECDによるこれからの教育に求められるキー・コンピテンシーである「単なる知識や能力だけではなく、技能や態度をも含む様々な心理的・社会的なリソースを活用して、特定の文脈のなかで複雑な要求に対応することができる力」が体現されている人を「どんどん過去を切り離してゆける人」と言い、さらに「昔のこだわりを捨て、痛みをコントロールでき、悲しくなったり寂しくなったりしても自分ひとりでなんとかできる。都合の悪い過去は全部切断することができる。そのいっぽうで『自分の人生はこういうふうにキャリアデザイン』とつねに前向きで未来志向的な物語化を行う」人だと付け加え、「それはランボーだ!」と結論する。

「よくぞ言ってくださいました」と、一人で安堵のようなものを感じていました。もちろんある程度は各領域において習熟し、円環的に人格陶冶をすることが必要だとは思いますが、他者に対して、すべて習熟できない(それが個性である)からこその寛容さも持ち合わせていたい。そのときの思考の型として「中動態」は大いに役立つと思います。

ただし、寛容の域に達するにはとても長い時間が必要であろうということも感じました。本書の言葉を用いるとすれば、仕事でも、プライベートでも、そして大人の教養大学でも、いろいろと「傷」や「痛み」を伴うのだけれど、それなりに孤独に考える時間や、他者と対話を交えて気づきを得る機会を経ないと、自分のなかでの傷の癒し、答え、ある種の昇華は出てこないんだろうと思います。

たいへん示唆に富む1冊でした。


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