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現代の「生きがい」をめぐって③―生きがいは必要?―

今の私たちの「生きがい」とは何だろうか?

神谷美恵子の『生きがいについて』を拠り所として、前回は「生きがい」とは何なのかということを掘り下げてきました。

■「生きがい」は必要か

さて、「生きがい」とは何なのか、ここまで思索を深めてきたわけですが、今回はそもそも神谷のいうような「生きがい」が必要なのかどうか、前提を覆すような角度からも考えてみたいと思います。

というのは、「大人の教養大学」の参加者のなかに「生きがいは必要ではないのではないか。今、コロナ禍においては『ただ生きている』そのことが尊いのではないか」という意見があったからです。

第2回までの「生きがい」の定義を振り返ってみると、この参加者のいう「生きがい」とは「使命感」に近いもの、「一心不乱に打ち込める」ものといったかなり狭まった意味での「生きがい」でしょう。日常生活のなかで何に対しても無感情で、食べものが美味しいとか、眠れて気持ちいいとかいった広義の生きがい(幸福)を一切感じないということはないと思われるからです。

そして、神谷は「人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない」とか、また「生きがいと本人すら意識しないほどのものもあ」るとか述べていたことより、大なり小なりの生きがいが必要だという立場をとっているとわかります。

小さな生きがい(幸福)が必要だというのは、私も賛成です。多分、まったく喜びを感じなくなったときとは鬱状態のことであり、ややもすると「生きている尊さ」を自ら絶つ恐れがあります。

ただ、使命感のような生きがいを皆がもつ必要があるのでしょうか。
人生の目的もなく、とりたてて打ち込めることもなく、宙ぶらりんでいる状態は、生きている甲斐(価値)がないことなのでしょうか。

これは違うと思います。

先の参加者の発言にもあるように、ただ生きているだけで、「居る」だけで価値があると考えられるからです。

■「生きがい」ではない、「居がい」

そして、ここで私は「生きがい」ということばのもつ強い意味合いから離れるべく、「居がい(い・がい)」ということばを提案したいと思います。

「居がい」ということばは日本語には存在しません。私の造語です。しかし、存在しないことばだからこそ「居る」ことに価値があるという意味をもっていることが、逆説的に真を突いているともいえ、悪くはなかろうと思っています。

「おばあちゃんは、私にとって『居がい』のある人」のように、他者が居てくれることに対して感謝の念を込めて用いる想定。(「その場に居合わせ、彼の役に立ったことで、私は『居がい』があった」と、自分の「生きがい」と同義で使えもするかと思いますが、あえてここでは他者からみた視点で描こうとしています。)

この「居がい」は、生まれてものごころがついて以降、私が他者に抱いている心象です。

たとえば、幼少期、学校から帰って来ると、祖父が庭の畑で草を抜いています。祖母が縫い物をしています。彼らは私が帰宅したことを知っても知らなくても、彼らの作業を淡々と行うだけで、私に話しかけてくることはありません(私の家族は寡黙なのです)。かくいう私も、彼らがいることを目の端で確認するだけで、ランドセルを置くや否や、黙々と一輪車の練習を始めます。

わかりますか、この光景が。お互いただ居るだけで、暇つぶしのようなことをやっているだけです。でも確実に、相手がただいることに意味があるのです。

職場でチームメンバーと一緒に淡々と仕事をしているときも似たような感覚があるかもしれません。空気・空間を共有している感覚。これは一人暮らしの在宅勤務ではなかなか味わえない。

いやはや、雑草抜きや縫い物、一輪車の練習、仕事などは、「生きがい」ではないかという見方もできるでしょう。また、家族やチームメンバーのつながりが感じられ、これこそが「生きがい」だろうという見方もできるでしょう。では、これならどうでしょうか。

電車のなかに乗り合わせた見知らぬ人たちに、安堵すること

変だと言われるのですが、私はほどほど混んでいる満員電車が嫌いではありません。夏場に球の汗をかいている人や、体臭のきつい人、足を踏んづけてくる人さえいなければ、好きともいえるかもしれません。それはなぜか。

私の知らない場所で、知らない人たちがそれぞれの生活を営んでおり、偶然一緒の車両に乗り合わせ、暮らしの横顔を見せ合っている。自分では抱えきれない孤独なからだが、知らない人に支えられ、自分が一人でないことを確かめられる。私はさみしくない。

これが日常で利害関係のある者どうしであれば、つながりがあることで逆に余計な介入や行き過ぎた気遣いをしてしまうことがあります。それはそれでほほえましいことです。しかし、人には放っておいてほしいけれども、自分と外部の境界をなぞりたいときがあり、電車というのは関わりがない人たちと黙して場を共有し、そこはかとない安堵感をもたらすときがある気がする。

「街をゆき 子供の傍を通る時 蜜柑の香せり 冬がまた来る」

木下利玄のこの歌に出てくる「子供」も、作者とはまったく関係のないそこらへんの子供です。しかし、その子供の存在に、木下ははっとさせられます。すれ違うとふっとかすめる甘い蜜柑の香り。ああそうか、蜜柑がもう出ているのだな。冬がまた来るのだな。

なつかしく、やさしい気持ちがこみあげる。

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知らない人とつながっている。時間と、未来とつながっている。
世界へ、社会へ、生活へ。
他者が「居る」、ただそれだけで、私は「生きて」いる。

よくよく考えてみると、「生きがい」というのは、自分が中心であり、能動的であることに重きが置かれていることに気づきます。

しかし、もっと私たちは、他者が「居る」ことから、受動的に自己の生を感じとることがないでしょうか。

■「無価値」は「有価値」

ことほど左様に、私がたとえ能動的な「生きがい」を持ちえずとも、他者は私に「居がい」を感じとる。本人が「無価値」と思っていたとしても、他者にとっては「有価値」たりえるのです。

マルセル=モースも『贈与論』で次のようなことを述べています。

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