勝手に書評|中島岳志|思いがけず利他
中島岳志(2021)『思いがけず利他』ミシマ社
最近、ミシマ社の本が面白いという話を友人としていて、その時に紹介された本がこの『思いがけず利他』だった。著者の中島岳志さん(1975〜)は、東京工業大学のリベラルアーツ研究教育院で教授をされている方で、同組織には、池上彰さんや伊藤亜紗さんなど、良く名前を耳にする方も多く在籍している。國分功一郎さんも一時、この教育院で教授をしていた。
本書は、東京工業大学未来の人類研究センターの「利他プロジェクト」(詳細はこちら)の成果の一部として書かれたものとのこと。本書以外にも、「利他プロジェクト」のメンバーら(伊藤亜紗、中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯崎憲一郎)によって書かれた『「利他」とは何か』などが出版されている。
ここ2年くらい、コロナ禍ということもあって、「他者と生きること」に注目した研究や書籍が多いように思う。covid-19という未知の存在との遭遇、ソーシャルディスタンス、マスク着用、オンライン飲み会といったコミュニケーションの変化など、どのように他者と付き合い、共存していくかが社会として問われている。そんな中で、利他という問題もまた、他者と向き合う姿勢という形で、とても大切な問題として浮かび上がってくる。だからこそ、こうして書籍も話題を呼んで注目されているのだと思う。(もちろんそれだけでなく、単に内容の面白さもあるというのは、言わずもがなのことではあるが。)
It's automatic... 側にいるだけで...
「It's automatic 側にいるだけで その目に見つめられるだけで ドキドキ止まらない Noとは言えない I just can't help」
宇多田ヒカルのデビュー曲「Automatic」の歌詞だ。何を突然、と思う方もいるかもしれないが、この歌詞と「利他」には共通点があるという。それは、どちらも意図せずに行われるということだ。
「Automatic」の歌詞では、(私はあなたの)側にいるだけで、見つめられるだけで、ドキドキしてしまう。自分はそうしようと意識していないのに、自ずとそうなってしまう様子が見て取れる。
一方、利他でも同じことが言えるという。「利他」とは、しようと思って出来るものではない。誰かのためにと思って行われる行為は、時として「利己」的なものになったり、「利他」の押し付けになったりしてしまい、本当の意味での「利他」とは言えなくなってしまうというのだ。例えば、「褒められたいからボランティアをしよう」というのは「褒められたい」という利己心によるものであるし、誰かのためにやった行為でも、受け取り手にとってはありがた迷惑になってしまうということは多々ある。そうではなく本当の利他とは、「利他的な行いをしよう」という意思を超えたところにあるのだと著者は言う。
与格:何かが自分に宿ること
著者が学生時代に専攻していたヒンディー語には、与格構文と呼ばれる文法が存在するのだという。与格構文とは、日本語であれば「私は〜」と始めるところを「私に〜」と始めるもので、例えば「私はうれしい」と言うところを「私にうれしさが留まっている」と言う構文である。ここでは、「私」は主格としてではなく、「うれしさ」の器として描かれている。
この自分に何かが宿る、何かが湧き上がってくる、という感覚は、先述したオートマティックと同じ理屈である。つまり、与格の構造は非意思によるものなのである。自分の行為を意思によるものではなく、意思以外の力によるものとすることで、自らを器のような存在とする。そうすることで、「他力」の存在を認め、「自力」一辺倒になることを防ぐことができるようになるのだと著者は述べる。
利他は未来で見つけられる
それでは、利他的な行いをしようと意図されて(あるいは意図されずに)行われた行為は、どうしたら真に利他的な行為となるのだろうか。
その答えは単純だ。相手がその行為を、「利他的なもの」として受け取った時だ。受け取り手がありがたいと思った時に初めて利他は利他として成立する。そして、この点において、利他にはタイムラグがあるという。すなわち、自分が行った行為が利他になるかどうかは、相手の受け取り方次第であり、自分では決められず、しかもそれはその場で決まるとも限らない。後になってありがたいことだったと感謝されることも少なくないのである。例えば、子どもの頃は両親に叱られて嫌だと思ったことも、大人になって考えてみればありがたいことだったと思えることは少なくないだろう。
つまり、利他的な行為というのは、その行為を行った時点では、それが利他的かどうかは分からないのである。この点において、利他には偶然性が内在されているといえる。「今」の時点では、利他は確約されていないのである。後になって初めて、その行為に「利他」という意味が見いだされる。
しかし、それでは今を生きることに虚しさを感じてしまう。最後に著者は重要なことを言っている。
裸の偶然とは、数学でいう「完全にランダム」のような、純粋な偶然のことだろう。そして現実にはそんなものは存在しないという。後に続けて著者は、陶芸職人の例を挙げる。陶芸が最終的にどのように焼き上がるかは、窯から出してみるまで分からず、そこには火の力といった偶然の要素が働く。それは「他力」としか言えないものであるが、かといって何も鍛錬をしていない素人が焼いても、陶芸の持つ美しさは生まれない。職人は、長い年月をかけて修行をした上で、偶然を呼び込むのである。
利他に限らず、私たちは「今」という偶然性の中を生きており、予め行為に意味を見つけられるとは限らない。しかし、だからといって「今」をないがしろに生きていても、そこに意味を見いだすことは難しくなってしまう。「今」を精一杯生きるからこそ、後からそれを意味づけし、過去の物語の一部として必然化することができるのである。そう考えれば、自分の思うように行かずとも、あるいは今の時点ではその行為にうまく価値を見いだせずとも、何かをやることに対して怖がる必要はなくなる。要は自分次第であり、他人次第なのだ。意味は後から考えればいい。
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