見出し画像

勝手に書評|私とは何か 「個人」から「分人」へ

平野啓一郎(2012)『私とは何か:「個人」から「分人」へ』講談社現代新書

 小説家の平野啓一郎さん(1975〜)による、分人主義の考え方をまとめた新書。「分人主義」と書かれると、なんだか難しそうな感じがする。分人もよく分からないし、主義という言葉は少しいかつい。でも、この本を読むと、そんな難しいものではないということが分かる。分人という考え方は身近な悩みを紐解いてくれる素晴らしいツールなのだ。

個人じゃなく分人ってどういうこと?

 個人は英語でindividualと書く。inは「出来ない」という接頭語で、dividualはdivide(分ける)という言葉に由来する。つまり、「(もうこれ以上)分けられない」というのが、個人 individualという言葉の持つ本来の意味である。あなたはあなたであり、それ以上は分割できず、1つしかない存在だというのが個人という考え方だ。

 では、分人とは何か。分人は個人 individual から否定の接頭語であるinを取ったdividualの訳語だ。つまり、「分けられる」のが分人である。この説明だけだと、少し難しい。「分けられる」とはどういうことだろう。

 例えば、こんな経験はないだろうか。私は中学生くらいの時に、学校の先生と敬語で話している自分は皮をかぶった自分で、本当の自分ではないと思ったことがある。あるいは家族といる時の自分と友達といる時の自分は全然性格が違っていて、友達といる時はなんだか演技をしているような気分になったこともある。こんな感じで今まで幾度となく「本当の自分」はこういう人間じゃない、「本当の自分」はこういう人間なんだと思ったことがある。

 分人の考え方に立つと、それらはすべて分人という「本当の自分」だということになる。分人は、あなた自身が持つ色々な顔の一つ一つを指す。それは人間関係や場面ごとに作られており(例えば、先生の前のあなたと友達の前のあなた、普段のあなたとスポーツに熱中している時のあなたなど)、そういう分人の集まりであなたという人間が出来ている、というのが分人主義という考え方だ。

 すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。(p.6, 7)

 この考え方で身の回りの出来事を見てみると、色々なことが腑に落ちるようになる。

 例えば、私はうつ病になったことがある。その時に、本当の自分はこんなにコミュ障で弱くて、こんなにうじうじしていて、こんなに陰鬱な人間なのかと絶望したことがある。そういう調子の悪い時もある、と考えられた時期もあったが、ずっとうつ病を患っていると、本心からそう思えなくなり、うつの時の自分が本当の自分だとしか思えなくなってしまう。つまり、一時的に調子が悪い時の自分が、本当の自分だと思い込む逆転現象が起きてしまうのだ。そして、うつから立ち直っても、今はただ調子が良いだけで、本当の自分はうつの時の自分なんだといつも思ってしまう。もっと言うと、うつの時でも友達と会えば多少は笑って話したりもできるのだが、その時の自分は仮初の自分だと思ってしまう。

 このことを分人的に考えるとどうなるだろうか。そもそも、うつで調子の悪い時の自分も、友達と会って笑っている時の自分も、それぞれが自分の分人であり、本当の自分である。つまり、一人の人間というのは、人間関係や場面ごとに変わるのが当たり前であり、どちらのみが本物ということはないのだ。どんなに素晴らしい人だって、どうしようもない一面は必ずある。そう考えれば、うつの時の分人はいくつもある分人の中の一つに過ぎず、それを過大に捉える必要はないのではないだろうか。一人の人間は、いくつもの分人の束で成り立っている。その中で自分の生きやすい分人を生きればいい。

本書の良いところ

 本書の良いところはまず、文章がとても分かりやすいということだ。対人関係で悩んだことがある人なら共感できるような具体例がいくつも挙げられていて、文章も小難しくない。なんだか、人生相談室に来て、年上の優しいおじさん(お兄さん?おじいさん?)が語りかけてくれるような、そういう感じ。だから読んでいて全然嫌な感じがしない。そうやって考えれば良いのか!、教えてくれてありがとうございます、という気持ちになる。

 本書の良いところの二つ目は、分人という考え方が身の回りの悩みを次から次へと紐解いていってくれることだ。紐解いて、と書いたのは、決して解決してくれる訳ではないということでもある。

 例えば、ラジオや雑誌のお悩み相談に手紙(メール)を出すと、パーソナリティが相談に乗ってくれて、一緒に解決策を探してくれる。だけど、その解決策が自分にとっては、あれ、なんか違うな、というものになった経験はないだろうか。それが出来たら苦労しないよ...みたいな答えが返ってくることは少なくないだろう。

 この本の良いところは、悩みに対して(もちろん悩みだけでなくとも)、こう考えたら良いよ、という考え方のツールを提供してくれることだ。だから、直接的には問題を解決してくれない。だけど、考え方を教えてくれるから、自分で考えることになる。しかも、それは今まで自分が見えていなかった考え方だ。その新しい武器でこれまで悩んでいたことに立ち向かうと、意外とあっさり腑に落ちることが多い。腑に落ちてしまえば、悩みは些細なことになってしまう。自分で考えて自分で納得したのだから、これ以上良い解決への道はないだろう。もちろん、分人は万能薬ではないと思う。でも、これまで持っていなかった思考のツール、欲しくありませんか?

今、対人関係で悩んでいる人へ

 何度も言うように、分人とは、色々な物事を考えるためのツールである。それを使えばもっと簡単に考えることのできる悩みがあるかもしれない。少なくとも私には沢山あった。

 今、対人関係で悩んでいる人、うつ病の人、失恋した人、元カレ・元カノに未練がある人、パートナーとの倦怠期に悩まされている人、苦手な友人や上司がいる人、なんだかよく分からないけどやる気が出ない人。もし、まだ自分のことを考える余裕があるのなら、この本を読んでみてはどうだろうか。この本は、凝り固まった考え方をほぐしてくれる。悩みとはいつも堂々巡りだ。そこから抜け出すためには、別の角度でその悩みを見てみるしかない。そのための道具だと思って、分人という考え方に触れてみてはどうだろうか。さっきも書いたように、この本は全然難しくない。少し時間を取れば、きっとあなたが自分自身のことについて考える手助けをしてくれるはずだ。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?