琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

第一章「はくり」

 雨が降っていた。山脈の灰を含んだ黒い雨である。都市部の雨と違い、大粒で重たく、肌に触れるとぬるりとした気味の悪い粘り気がある。薄墨のような水を吸った衣服は黒く染まってしまった。この調子で目立ちはじめた白髪も黒く染まってくれるとありがたいのだが、生憎とこの雨は酸性だ。長く浴び続けると毛根に悪い影響を及ぼすことになる。

 四苦八苦しながら服を脱ぐ。いまだ痺れの引かない左腕を庇いながら重くなった布をすり傷だらけの身体から引っぺがすのは難儀なことだ。この雨は傷口に染みる。乾いたとしても肌の表面には鉱石の塵が残ってざらざらとするのだ。洗い流すこともできず気持ちが悪い。この集落に運ばれてからというもの、自分の生物としての不甲斐なさに直面させられ続けて情けない思いばかりしている。

 それでも、一人で、何の道具も使わずに火を起こせるようになったことはほんの少しばかりの自信になっている。もちろん、集落の住人と比べてしまえばあきらかに時間はかかるのだが、生きるための術を何も持たなかった以前からしてみれば大きな進歩だと自画自賛しても罰は当たるまい。

 種火を乾燥させた枝に移し、静かに息を吹き込む。日照時間が短いこの集落で衣服を乾かすためには円錐形をした住居の中で焚かれる火の熱に頼るほかない。渓谷の底に位置するこの集落では、山脈に吹き込む湿った風の影響を受けて常にカビ臭い。そのうえ近辺で採掘できる鉱石の塵が雨に交じって降り注ぐものだから、渓谷一帯は墨を伸ばしたように黒い。鉱石の塵を多く含んだこの土地の土壌は固い粘土質で、先住民の彼らは木組みの構造に蔓を延々と巻き付けた土台の上に薄く泥を伸ばして固め、その一部に穴をあけて住居としていた。焚火で生じた煙がどこから抜けていくのか不明だが、火の焚かれた住居内は驚くほど快適だ。都市にある自宅ほどではないが、この悪条件の中でここまでの生活環境を整えられる彼らの知恵は文明生活に慣れた私には新鮮で、尊敬の念を抱かせると共に更なる観察、研究の意欲を沸き立たせるのに十分だった。

 入り口の垂れ布をかき分ける音がする。足音をたてないのはこの集落を築いた部族の特徴だ。音もなく私の隣に立ったヌェラは、いまだ小さい焚火の火を見つめ、何も言わずに新たな薪を足し入れた。水を吸った布がはっきりとわかる輪郭で伸びやかな手足と戦士らしく引き締まった腹部を浮かび上がらせている。妖しく揺らめく明かりと雨に濡れた装束は、言葉ではなく、視線で意思を伝えようとするこの寡黙な戦士によく似合った。右手には今日の狩りで使った槍と獲物の入った布袋を、左手には私の腕に突き刺したトカゲの毒牙を握っている。

 あの牙で刺されてからしばらくの間、左腕には炎で炙られているような痛みが延々と続いた。雨に打たれて少し冷えたのか、いまは随分とショック症状も落ち着いている。恐らく、あのトカゲの毒は即効性の神経毒なのだろう。注入された毒が少なかったために症状がこの程度で済んではいるが、生きたトカゲに直接噛みつかれて大量の毒液を注入されたらと思うと背筋がさむくなる。左手の激痛を思い出してみるに、あれは獲物を弱らせるために使用される毒であって、致死性のそれではないはずだ。でなければ教育係である立場をおしてまで私に毒牙を刺そうとする理由がない。遭遇することが稀な渓谷の動物を確実に捕らえるために生み出された奴ら特有の毒である可能性が高い。その証拠に、燃えるような痛みは既に引き、痺れによって神経の伝達を阻害する症状の方が長く続いている。きっとこれを学ばせたかったのだろう。この渓谷で生き抜くためには、身体の大きさではなく、生存のために生み出された技の方が重要視されている、ということなのだ。

 研究室では発見できなかった成果だ。これだけでも渓谷に踏み入った甲斐がある。

 ヌェラは火の前にたたずみ、私を睨みつけている。まるで見るなと警告するように槍の柄で地面を叩き、獲物の入った袋を私に投げつけた。その瞳は爛々とし、いまにも獲物に飛びかかろうとしている肉食獣のようだ。おかしな動きを見せれば直ちに殺す。まるで初めて顔を合わせた日を思い出させるような殺気を、全身から迸らせていた。

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