掌編「ディッシュ」

 館の主人はそうとうな世話好きとみえて、私がたいして長くもない散歩から帰って来た時には既に食事の用意が整っている。それだけに留まらず、私が散々汚し放題に散らかした部屋も、窓ガラスに白く残っていた爪の油ひとつ残さず、きれいさっぱり掃除してしまっているといった始末だ。更に、館の一角を私に貸し出しているにもかかわらず家賃をとろうという気配が一向にない。これは良いところに流れ着いたと思ったが、ここまで親切にされるとかえって警戒心が首を擡げるというものだ。

 それにしても、ここの食べ物は美味い。大皿になみなみと盛られたカブの葉と小松菜にバナナの添えられたサラダは朝露を残しているかの如く見るからに新鮮で、葉を噛めばこの土地の良質な土壌が瑞々しく舌の上で弾けるようであり、果実は歯茎をとろかせるような甘美な優しさに満ちている。まだ見ぬ豊饒な田畑が目に浮かび、耳を撫で行く風を感じられるようであった。私の食べっぷりに、親切な主人も満足している様子である。

 しかし、今日はなんだかそわそわとしているような、何かを隠しているような素振りを見せるのは何故だろうか。とうとう家賃を払ってもらわないとたちゆかなくなったのか。はたまた、この土香るサラダの盛り合わせに、実は毒を盛っていて、私が一向に調子を崩さない様子を訝しんでいるのだろうか。

 大皿に突っ込むようにして動かしていた口を止め、いよいよ不審に身体を揺する主人を見上げる。私の尋ねるような視線に耐えかねたのか、主人は少し迷うように瞳を動かしてから、後ろ手に隠していたそれを私の眼前に突きつけた。

 ほぅら、今日はこいつを馳走してやろう。

 主人の指先から吊るされたそれを認めると、私の身体はひとりでに打ち震え、緑に染まっているはずの胃の腑がぐぐぐと音をたてたようだった。予てより所望していた小鼠が、やっとその姿を現したのである。白い艶の光る体毛が見事に生えそろった立派なそれは、主人の指に尻尾を摘ままれ、なんともだらしのない恰好で瞑目していた。

 鼻先で揺れるそれに、私は迷わず飛びついた。ひと噛みふた噛みと味わい、まだ生暖かい小鼠を胃袋に納めてしまうと、ほどよい重量感が地面と抱擁を交わし、四肢からは力が抜け、全身を抗いがたい満足感が支配した。
主人は静かに窓を閉め、顎を伏せた私をそっとしておいてくれた。気の利いたことに、サラダのディッシュは置いたままだ。ひと寝入りして目覚めたら、また詰め込むことにしよう。

 この館に移ってまだ日は浅いが、私はもうこの土地に根を下ろそうという腹積もりでいた。これほどまで居心地が良く、清潔な場所は他に知らなかった。ここには主人の好意を争う敵も隣住者もいない。おひとよしの主人が他の旅者を泊めることがあるかもしれないが、それはそれ、先住の権利を最大限活かして鷹揚に迎え入れてやろう。

 頭上から随分と頓狂な鳴き声が聞こえた気がして薄く目を開ける。何のことはない。主人が薄っぺらな小板を透かして私を見下ろしているだけだった。

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