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人に「努力しろ」と言う人ほど、努力の経験値が少ない説


こんにちは♪凛です。
『横浜のお財布の価値』も、多くの方に読んでいただけているようで、嬉しいです😊

さて、本日は、ちょっとだけ真面目寄りのテーマ…かな?😅
でも、決して重い内容ではないので、最後まで読んでいただけたらと思います。

1.SNSでよく見かける「自己責任論者」

貧困問題や経済的格差について、「努力しない当人が悪い」と当事者を断罪する人たち、簡単に言えば、自己責任論者をSNS等でよく見かけます。

個人的な興味から、自己責任論者たちは、なぜ、面識もない他人に「努力が足りない」と平気で言えてしまうのかを考えてみました。
その結果、「実は、彼らは努力の経験値が少なく、努力の重みを知らないから」ではないかという推論に至りました。

私がそう推論する理由を説明するために、私の体験談を書きます。

2.努力に裏切られた経験と、努力に報われた経験。そこから学んだこと

高校3年の11月、入りたかった国立大学の推薦入試がありました。当時の私は、夏休み前から当日まで、全力で推薦入試対策を行いました。
寝る時間と食べる時間以外は、小論文や面接に関する勉強や練習に費やしました。お風呂の中でも、毎日、面接の練習をしていました。

しかし…結果は不合格でした。
親や教師が、後に「あの数ヶ月の凛は、あんまりにもしんどそうで、とてもじゃないけど見ていられなかった」と口を揃えて言うほど、頑張りました。
それでも、私は選ばれなかったのです。

この推薦入試の前にも、たくさんの失敗をしたけど、この時ほど「努力は簡単に裏切る」ことを、痛いほど思い知らされたことはありませんでした。

逆に、努力が報われた経験だって、もちろんあります。
まず、大学受験。
夏休み〜11月という、受験にとって大事な大事な時期を失ったこともあり、現役合格は叶いませんでしたが、1年浪人して、それなりの大学に合格できました。

そして、就職活動。
毎日毎日、ハローワークやカラオケボックスで面接練習を行なった甲斐あり、入りたい企業から内定をいただけました。

努力にこっぴどく裏切られた経験と、努力が報われた経験…
両方の経験から、努力は報われることもあるけど、報われないこともザラにある、不確実で残酷なものであることを学びました。 


しんどい思いをして努力しても、裏切られることが当たり前にある。これこそが、努力という言葉の「重み」です。 
努力の経験値が豊富になればなるほど、この「重み」を嫌でも分かってくるものなのではないかと思います。
この重みを知っていたら、人様に軽々と「努力しろ」とか「努力が足りない」とか言えたもんじゃないはずです。
努力という言葉は、そんなに軽々しく使っていい言葉じゃないと私は思います。


…そう考えると、他人に、努力努力と言えてしまう人間というのは、やはり、努力の経験値が少ないのか、運よく、とんとん拍子に努力が報われてきたのかで、努力の重みをよく知らないんじゃないかなと私は思ってしまいます。

もちろん、これはあくまでも推論で、何の根拠もありません。

でもSNSで自己責任論的なことを書いている人たちの投稿内容を少し深掘りしてみると、大抵は、1日中、芸能人やインフルエンサーに嫌なリプを送ってる人だったり、ゲームのことばかり1日に何回も書いていたり、レスバばかりしてる人だったり…。
正直、努力の「ど」の字も感じられない人が多い印象です。

普通、人に努力努力と言うなら、自分がいかに努力して、どんな結果を出してきたかをアピールしても良いようなものなのに、そういった経歴をオープンにしている人はあまりいない気がします。

おそらく、ある程度恵まれていて、大して働かなくてもいいから、時間に余裕のある人たちなんじゃないかと私は推測しています。

3.結びにかえて

しつこいですが、あくまでも推論です。
もちろん、自己責任論者にも多様なバックグラウンドがあると思いますし、努力の重みを知った上で、他人にも自分と同じ苦労をしてほしいと思って言ってるというパターンも、少なからずあるとは思います。

ただ、「努力をしてきた人ほど努力の重みを分かっている」というのは、ほぼ100%言い切れます。
努力するからこそ、失敗して、努力の裏切りに涙するー。
努力すればするほど、人に優しくなれると私は信じています。

 


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