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気持ちを解釈しないことで心を守っていた。

自分の反応に対するあらゆる解釈を拒絶していた。
どんな反応が起きても「それは単に反応に過ぎない」として、自分の反応に何らかの意味を持たせることを徹底的に拒んだ。

自分の気持ちを他人に読まれるのが嫌いだった。
周りの人とトラブルを起こしそうなように私の内面を解釈されたら、「私はそんなこと思ってない」と言って誤解を訂正するよう求めた。

「私の気持ちが分かるのは私だけ。私の内面を解釈して良いのは私だけ。そして私は自分自身の気持ちを解釈しないことで、どんな気持ちも持っていないということにする。」
ずっとこれに囚われていた。


私は自分の気持ちがよく分からないし、自分自身がどういう人であるかもよく理解していない。
……いや、「分からない」のではなく「分かろうとする試みを拒んでいる」のかもしれない。

たぶん、内面がハッキリしてしまうことが怖いんだ。自分の内面をハッキリさせてしまえば、周りがそれによって不快になったり、私のことで心を悩ませたりして、周りに迷惑をかけてしまう。そういう迷惑な存在だとして見られるのが嫌。自分の内面が問題視されることが嫌。
だから自分の気持ちと向き合わないようにしてきたのだと思う。


例えば、私は人が何かしてきた時に体は咄嗟に避けていても「別に全然嫌じゃない」と言ってしまう。避けるという反応自体が「嫌がっている」という事なのに、私はそう解釈されるのを頑なに否定していた。外からそう見られていても、そうやって受け取るのは誤解だと言っていた。
そういった経緯があって「私は人から理解されにくい」になっていたと思う。人が私のことを理解しようとする試み自体を「私のことを理解していないからこそできること」だとして扱っていた。

人の気持ちを解釈しようと試みる人は私にとって「危険な人」だった。人の気持ちを解釈するという試み自体がプライバシーの侵害だと感じて、そういう人達を「人の気持ちに無配慮だ」として忌み嫌っていた。
私にとって「気持ちへの配慮」とは人がどう思っているか“気にすること”ではなく“気にしないこと”だった。極力他人の気持ちを気にしないようにすることが最善の思いやりだと考えていた。だから私は自分の気持ちを無視する人からしか愛されてると思えなくて、私自身の気持ちを気にかける人は「鬱陶しい」と拒絶していた。
その辺り、世間と常識が正反対であったと思う。


「あらゆるものに反対しか出来ない私は誰とも分かり合えない」と自分のことを思っていたけど、世間一般のことを何も理解できないというのは自分が「何かされる」というだけで反対していたからだと思う。
無意識のうちに、私が外を理解しようとすることも拒み、他者が私を理解しようとすることも拒み……そうやって徹底的に拒絶することで、「誰からも理解されない内面」を築き上げていたのかも。

「私の知る本質は誤解されている」ではなく「私が全ての本質を誤解していた」ということかもしれない。


私は『アレキシサイミア(失感情症)』の傾向が強いと思っていて、アレキシサイミアの「自分の気持ちがよく分からない」というのはここから来るのかもしれない。
「自分の気持ちが分からない」というのは「自分の気持ちを分かろうとしない」というのが原因なのかもしれない。……と言っても私はこのような“知ったかぶりの口調”は嫌いなので、このような表現はしたくないのだけど、悲しいことにそれが真実なのかもしれない。そんな感じの「悲しいこと」を私はずっと受け入れられなかったのだから、いつまでも誤解し続けていたのだと言える。

「他者が私に本当の事を伝えること」がやけに上から目線に聞こえて、その偉そうな態度に大きな拒絶感を覚えていた。
自分の気持ちを他人から解釈されるのだってそう。外から映る「私」について知ることに対して、「なぜ私でない人が私よりも先に私のことを知った気になってものを言っているのだ」と苛立ちを感じていた。
「その存在に関する本質は、その存在の中にしかないのだから外から見ようとしたってどれも間違いだ」という考えが強すぎたのかも。

アレキシサイミアの「感想が書けない」という特徴だってそう。
自分なりの感想を書くためには対象を外から見た解釈を述べなければいけないわけだが、私はその行為を「誤った偏見で断定してしまうこと」として避けようとしていた。私の中では「そのものそのままを受け止めるのが敬意をはらう事であり、私達は外側から見て本質を測ることなど決して出来ず、それは禁忌だ」という原則があった。
だから知覚したそのままの状態しか意識に入れようとしなかった。私のその行為はASDの「他人の気持ちや意図が読めない」とも表現された。実際の所は他人の気持ちや意図を一方的に解釈することに対して、倫理的な観点から大きな拒絶感が生じていたのだと言える。今でも人のことを一方的に解釈してしまうのは無礼な気がして、とても出来ずにいる。


もしかしたら、ASDの「他人の気持ちや意図が読めない」やアレキシサイミアの「自分の気持ちが分からない」は、ある状態を何らかの“気持ち”として解釈しようとする試みへの拒絶が原因となっているかもしれない。

自他をありのままに受け止める性質が強いから「それ以上を解釈しようとしない」。偏見を持ちたくないという倫理観がもたらす、何もかも「本当の所は分からない」として濁す性質。
私はそういったものが強いのだなぁと感じた。




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