短編小説「あるとき月が目にした話によると」第七夜
第六夜↓
第七夜
その晩、わたしは夢をみていました。夢をみるということは、睡眠が浅いということらしいですが仮にそうだとしてもわたしは、眠りながら知りもしない土地で見知らぬ人や生き物とともに過ごすあの時間が、実はとても好きだったりします。
近頃は身の毛もよだつような恐ろしい夢というのはほとんど見なくなりました。それはとても落ち着いていて、緩やかで、穏やかな時間であります。目を覚ませばあっという間に忘れてしまうその夢ですが、どれほど心地の良い時間を過ごしていたのかというのは、身体が覚えていてくれるものです。そんな平穏な夢ばかりを見ていたものですから、すっかりわたしの夢たちは恐れというものを忘れてしまったのです。
「今晩は少し変わったお話でもしましょうか」
そう言ってやってきた月の顔には、得意げな光が漂っていました。
「その男の寝室からは、毎晩決まってキリキリ、キリキリと音が鳴るのです。それも一度や二度ではありません。その音は一晩中続き、男が目を覚ますとパタリと止むのです」
どういうわけか、このときわたしはいつもの部屋ではなく、霧の漂う薄暗い森の中に立っていました。そこで頭を持ち上げ、月のお話を聞いていたというわけです。月は続けました。
「男にはサーシャという妻がおりました。艶やかで手入れの行き届いた美しい黒髪、すらりと細く長い手足、その姿はとても美しく、男の自慢の妻でした。そんな素敵な女性を手に入れたのですから、男は町中から渇望の目で見られるようになりました」
わたしはぼうっとした気持ちで月のお話を聞いていたわけですが、ふと濃霧の中にサーシャという女性の姿を見たように思いました。咄嗟に眠たい目を擦りましたが、もう一度よく目を凝らすとそこには何もありませんでした。
「男はサーシャをそれはそれは大事にしました。それもそのはず、これほどの美女はこの町ではほかに見当たりませんから。嫌われるわけにはいかないのです。男にとってサーシャは絶対であり、彼の生活はすべてが彼女の言いなりでした。しかしそれはどれも悪いことではありません。サーシャとの生活により男は交友関係を改め、定職につき、みるみるうちに立派な紳士となったのです」
途端、濃霧は消え去り、わたしは紳士の集うクラブの窓際で月を見上げておりました。頭の理解が追いつく前に、近くをその男が通り過ぎてゆきました。彼は、ブラウンのジャケットに身を包んだ長身の紳士と酒を交わしており、サーシャの自慢話に花を咲かせているようでした。わたしはそっと二人の方へと近づいてゆきました。
『君はいつも彼女の言いなりだ。何も不満はないのかね』ブラウンのジャケットを羽織った紳士が尋ねました。仮にこの紳士の名をブラウン氏としましょうか。
『ああ、ないね。彼女がいなければ私はこんな生活は送れていないだろうよ』と男が言いました。
『そうか、それは本当に羨ましいばかりだ。彼女とは一体どこで?』一瞬の隙に、ブラウン氏の顔に小さな笑みがこぼれたのをわたしの目は捉えていました。
どこか遠くで月の声が聞こえてきたかと思うと、今度は男の家のソファに座っています。誰にもわたしの姿は見えていないのでしょうか。男はサーシャに夢中で、来客には見向きもしませんでした。
『サーシャよ、そんな悲しい目をしないでおくれ。いつものように笑っていてくれれば良いのだ。サーシャよ、どうして、どうして目を合わせてくれないのだ』
その部屋は暗く、男とサーシャの姿ははっきりとは見えません。ただガサゴソと二人の動く物音が響き渡るだけです。わたしはサーシャという女性がどんな顔をしているのか、見たくてたまらなくなりました。その衝動はどうにも抑えることができません。物音のする方へじりじりと忍び寄り、その機会をじっと伺っていました。まるで獲物を見つけた獣になったような気分でした。だらだらと涎を垂らし、四つん這いで床を這い回っているのです。とうとう男の足元まで辿り着いたわたしは、その尖った牙を剥き出し、サーシャに食らいつきました。
脳天を突かれたような鋭い痛みが全身を襲い、男の悲痛が脳裏に響き渡ります。膝から崩れ落ちた男の体が、床にあたって激しく弾みました。辺りに飛び散った赤い雫は、男の顔を鮮やかに彩りました。
『ブラウン、どうしてお前がここにいる。お前か?お前がやったのか?なぜ———』
『生まれてこの方真面目に生きてきた私ではなく、遊び呆けていた君のような人間が彼女を手に入れるとはね。あまりにも不公平ではないかな。私は医者だ、彼女を救えるのはこの私だけだ』
わたしは首筋に鋭い痛みとキリキリ、キリキリという耳を塞ぎたくなるような音を覚えながら、はたと目を覚ましました。
「これは失礼。あなたを起こすつもりはなかったのですが」
窓辺に目を向けると、いつものように月がわたしの部屋を訪ねていました。
「随分とうなされていたようですが。可哀想に、夢であなたは男に喰われたようですね。クラブの紳士となり、獣となり、最後はブラウン氏ですか。いいところで起こしてしまったようなので、せっかくですから結末までお話しして差し上げましょう」
その後、月の語った男の結末はなんとも哀れなものでした。愛するサーシャを傷つけられた男はこれ以上奪われまいとその場でブラウン氏の首元に噛みつきました。しかしこれらは全て男の幻想に過ぎません。彼はいつもの酒場で一晩中飲み明かし、架空の妻を作り上げ、上も下もわからないほどに酔っ払い、挙句、友を噛み殺した。ブラウン氏はただ男に水を飲ませようとしただけだったとか。それからというもの、男は懺悔の日々です。そして毎晩何物かに噛み付く夢をみているそうです。キリキリ、キリキリ、と歯軋りを繰り返しながらね。
ところでわたしはと言いますと、こんな悪夢を見たのは随分と久しぶりのことでしたから、どうにもこの夢が頭から抜けきらなかったのものです。男の歯軋りの音も脳裏にしっかりとこびりついてしまいました。首筋の痛みはせいぜい寝違えたくらいのものでしょう、ただ、気味の悪い音だけはどうにか対処せねばなりません。そしてわたしはその晩を耐え抜き、翌朝、なんとかしてくれと歯医者へと出かけてみたのです。するとどうでしょう、その歯軋りは、なんとわたしのものだったのです!それも何ヶ月も前から!よく気づきましたね、と医者が言うものですから、わたしは昨晩の夢の話を言って聞かせました。医者は怪訝な顔を見せましたが、それでも良いのです。おかげでわたしの歯は欠けずに済んだのですから。
持つべきものは、親切な友かもしれませんね。
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