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日記:好きな作家に出会った〈イーユン・リー〉

久しぶりにどっぷりと、ため息のように漏れる「好きだ」という感覚にひたる。イーユン・リーの「独りでいるより優しくてーKinder Than Solitude」を読んでいる。
彼女の言葉と物語が私の肌感覚を撫でるように心地いい。数ページ読むと、求めていた久しぶりの感覚にあたまの中で火花が散ったようだった。

あぁ、私にもっと言葉で伝える力があったらいいのに。とにかく今、イーユン・リーがすごく好き!ということを世界の誰かに言っておきたいのだ。私は恥ずかしいほどに遅読なので、この本を読み終わるのにはおそらくあと1週間ほどかかる(途中で何度も読み返す時間も含めて)。それまでこの叫びを胸の中にとどめておけない。
出会ってしまった。

この本「独りでいるより優しくて」は図書館の開架ではなく、書庫から出してもらい借りてきた。他の著書を見ても市での蔵書数は比較的少ない。Amazonのレビュー数さえも少ない……。数々の賞を受賞し、少なくともアメリカでは有望な作家として注目を浴びているが、好みが分かれる作風なのかもしれない。

楽しく軽いステップで読める本ではないと思う。難しい言葉は使われていないのだが、修飾節や比喩が多く、どれも長いので、飲み込んでいくのにある程度労力がいる。ただ、そこを分かった気になってさらっと飛ばしていくと、繊細な文章で削り出された世界に溶け込めずに傍観者のまま終わってしまう、そんな危なっかしい雰囲気がある。
この本はひとつの事件にまつわる物語だが、ミステリーではない。事件の真相を暴こうと読者を煽る本ではない。途中まで読むと、事件自体はただひとつの過去に過ぎないのだと思えてしまう不思議さがある。

何より、イーユン・リーの文章全体には孤独や寂しさといった、ひんやりした霧のようなものが漂っている。それは小雨が降る中で静かに、悲しげに響くピアノの旋律のようで、入り込んでしまうと、周りにあった世界が非現実的な喧騒となって私から離れて行く。一旦本を閉じて戻ってこれば、その世界はあまりにも激しくて、うるさくて、強すぎて、ここが私の生きていく現実なのだと、実感を持って肌に馴染ませるまでしばらくかかってしまうのだ。

私は柔らかな膜を隔てて孤立し続けるこの感覚を知っている気がする。ずっと傍にあったものだと。だが、おそらくは皆にとって同じではないのだろうとも思う。これを不快なもの、あまり知りたくないもの、と感じる人もいるだろうと。
浅はかな考えだが、孤独を感じたことがない人にとってこの本は訳が分からないかもしれない。全く孤独でない人間というのがいるのか知らないけれど。

例えばこんな一節が私を吸い込んでかき乱す。

そう、一緒に過去を眺めてくれる誰かにいてほしい。(中略)彼らは醜いアヒルの子であり、自分の運命を知らず、身に起こるすべてを無我夢中で受け入れていた。でもそれ以上に、たとえ取るに足りない瞬間であろうと、ある瞬間がそのうちに重みと意味を増していくことがあるのを、わかってくれる誰かにいてほしい。

「独りでいるより優しくて」イーユン・リー

心の底から滲み出すような、誰かを求める気持ち。何も問題なく、満ち足りた環境を整えたつもりでも、いつかどこからかそれは染み出して、私たちを捉える。私には捕まえることすら出来ないものを目の前に突き出されたようでびくつき、でもそれを書いてくれる人がこの世界にいることに感動する。


ちなみに今、一緒に借りてきた桐野夏生の本と交互に読み進めていて、同じ本というカテゴリなのに醸し出す空気と人の心の動かし方がこうまで違うことに戸惑っている。でもその戸惑いはとても楽しい。ただ言葉を読むということが広げていく世界を感じられて。

そう、私はまだ読み終わっていない。先にも述べたのだがあと1週間ほどかかりそうなのだ。あふれ出るままに感想を書き始めただけなので、これは読書感想文とは言えないのだけど……。なにせストーリーが終わっていないのだから、あとで最悪の場合、「ごめん、やっぱ好きじゃないわ」とか言い出すかもしれない。
そうなったらまぁそれはそれで。
満足したらまたちゃんと読後の感想文を書き残そうかな。

とにかく今、この瞬間、私はイーユン・リーの紡ぐ言葉にどうしようもないくらい沈み込んでいる。好き!
(本とnoteに夢中になっている間にパン生地を発酵させていたのをすっかり忘れていた。今気づいた。)

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