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小さいころ"身長が高い”のが死活問題だった。いまは、ありのままの自分を好きになりつつある

「モデルさんみたいに身長が高くていいね。」

なんども小さいころから言われたこの言葉。嫌で嫌でしょうがなかった。皮肉にしか聞こえなかった。みんな私のことが嫌いだからそういうんだって思ってた。

誰にだってある身体のコンプレックス。だれも完璧な人なんていない。でも自分のありのままの身体を愛している人はたくさんいる。

私も少しずつ、自分の身体を愛することができるようになってきたと思う。

身長が高いことが、誰に笑われる訳でもないのに”恥ずかしいこと”だと思いこんでた

「自分はなんて恥ずかしい子供なんだろう」

小さい頃から身長は高かった。私が幼稚園に通ってた頃から絶対、背の順では後ろだった。

小さい頃は女子の方が、男子のほうが成長が早い。だから女子の方が身長が高くなりやすい。その女子の中でも身長が高かったのだ。もう巨人である。

少女漫画的に出てくるような、かわいい女の子が図書館とかで取れないから男子に取ってもらうってことなんてなかった。

だからキュンキュンしてるかわいい女子に憧れが強かった。

すごく嫌だったのが背の順で並ばされる時と、健康診断。

みんなは覚えているだろうか。平均が書かれたグラフ付きの健康診断の紙。私に身長は何でそのグラフの真ん中に入れないんだろうと一生懸命眺めていたのを覚えている。逆に体重はギリ基準にはいっていた。だからなんだか嬉しかった。

「特別なんて嫌だった。みんなと一緒になりたかった。」

体重測定の時や、背の順で並んでいる時、別に誰に笑われる訳でもないのに、自分と周りの子供と比べてた。

「自分はなんて恥ずかしい子供なんだろう」

っていつの間にか思うようになっていた。

「身長が高いからモデルみたいだね。」小さいころはよく言われてた。だけど、素直に喜べなかった

「のんちゃんは身長が高くてすらっとしてるからモデルさんみたいだね~。」

学校以外のいろんな知り合いに言われた。どこへ行ってもおとなに言われた。でも、私は苦笑いしかできなかった。だって、その時の私には自分の身長の高さのどこがいいのか一つも理解できなかったからだ。

1年生なのに4年生ぐらいの身長。

そして身長が大きいのに運動が全然できないことも大きなコンプレックスになっていた。小さい子だったらもっと身体が軽くて速く走れるんだろうなと思いながらいつも校庭を見てた。

子供なのに、かわいい子供と見られない。「かわいいと思われること」が小さい頃は何よりも正義だった。

「モデルはみんなかわいいからモデルになれるんだよ。身長が高くてモデルになる人なんて聞いたことないよ。」って。

おとなに身長を褒められれば、褒められるほど、コンプレックスを褒められると謎に怒りの感情がうまれるようになってしまってた。

同じ間違いをしても小さいと”可愛い”、デカイと”どんくさい”…って見られるのが嫌だった。私は腰回りが細かったので、ミニスカートを履くとすごく短くなってたから悲しかった。

小さい頃、親にいわれたこの一言が忘れられない。

「はしたないから、ミニスカートを着るのはやめなさい。」

思えば、今よりも腰回りが細いから超絶ミニスカートになっていて、すごいミニスカートになるのもわかる。でも、その時は、”私がミニスカートを着てるからはしたなく見える”。そういわれた風に思い込んでしまってた。

”並ぶ”習慣が必要な時もある。だからこそ”背の順”以外のいろんな並び方を使ってほしい

体育の時は、名前順ではなくて、必ずと言っていいほど背の順だった。小さい人から大きい人に向けて並ぶ。そして、私はいつも一番後ろ。

先生は一番前の前にいる。だから誰からも私は見えていない。ラジオ体操の時と縄跳び競争の時に「背の順」の制度が謎だった。

だから、よくわからず、先生に背の順の理由を聞いたら真剣に答えてくれた。

「のんちゃんが前に来るとみんなが見えないでしょう?後ろの人が上達しづらいでしょう?」

心の中では先生の言葉が素直に受け入れられず「それなら目が悪い人が前に来るべきじゃん!」って皮肉ちっくに考えてた。

おとなになった今では思う。ちゃんと「思いやり」っている日本独自の文化が大事とされているんだ。

背が高いのは単なる特徴にすぎない。そして組体操をする時、二人で何か柔軟をする時、身長差が少ない方が圧倒的に楽になるのは分かる。だから背の順で並ぶのは理にかなっているのは理解できる。

1人の先生が30人以上をまとめるのがすごい大変なのはわかる。だからそこまで配慮できないのは分かる。

学校という教育機関において、”並ぶ”習慣が必要な時もある。だからこそいろんな並び方をいかしていってほしいって思う。

例えば、足の速さ順、誕生日順、家の近さ順、名前の画数順とか並ぶ指標はなんでもいい。ただ、後ろの人は永遠に後ろ。そんな嫌悪感や劣等感が生まれる指標が「身長」にならないといいなと思う。

他にも学校ではいろんな矛盾があった。

小学校の時、体操服が統一されていること。水着まで一緒のこと。名前の刺繍をなんでしなきゃいけないのか。なんで髪の毛を結ぶ形も一緒にいなきゃいけないのか謎だった。

私の学校は私立でもない。普通の公立の学校だったからこそ自由な発想ができなかったのかな。今でも謎は消えない。

環境を変えることで、ありのままの自分を愛することができるようになった

今ではちゃんと自分の身長がすき。小さいころ身長が高くていいねって言われた理由が今ではすごく理解できる。今の身長があるおかげでスタイルがいい自信がある。

昔は背の高いことをコンプレックスしかなかったから、下向いていた歩いてた。猫背だった。だから余計に暗い気持ちになってたのかもしれない。

反対に、今では、私が身長を社会的ステータスや健康状態を見極めるための一つの要因だと思ってる。だから身長が高いのが自慢。身体は資本だとすごく理解できるから。

無意識的に、脳は自動的に身体のサイズを、リーダーとしてのポテンシャル、権力、強さ、知性と結びつけているらしいっていう記事も読んだことがある。なんとなくわかる気がする。

でも、今でも身長高いことをがいやだなって思うことがある

それは男性とのデートの時、好きなヒールを履けない。8センチヒールを履きたいのに170センチ前半の男の人といくと考えるとすこしやめておこうかなって思う。

でも、大人になって思う。身長が高かったおかげで脚が長いねって言われることがすごく嬉しくなった。なんでなんだろう。環境が変わったからだろうか。自分が変わったからだろうか。

誰にでもある身体のコンプレックス。

私は、小さいころから高い身長がコンプレックスだった。でも自分のいる環境を変えることで「自慢」になった。自分を好きになれた。

私には、他の身体はない。この先私を愛してくれる人は、きっと丸ごとの私を愛してくれるはず。

でも、誰よりも最初に自分が自分を丸ごと愛したい!って思う。

「こんな自分になりたい」と夢や目標を思い描くのは大事、

でも、時にはこれまでの道のりを振り返り、ありのままの身体を愛すこと、好きになることも大事だよね。


P.S.
最後まで読んでくれてありがとうございました。感情で書いてしまった部分が多いのですが、私のような人はすくなくてもいるのではないのでしょうか。そんな人のことをいろんな人にもっと知ってほしい。そんな思いで書きました。この記事を読んだ人に少しでも救われる人がいますように。読んだ感想をコメントで聞けると嬉しいです。

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