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掌編小説:歪みの均衡【4563文字】

「店長、お店開けますよ!」

開店の10時になり、舞ちゃんが待ちきれない様子で店のドアを開け、外側にぶら下げた小さな板をひっくり返し「open」に変えた。日差しが春らしくなってきた3月中旬。店の外を歩く人たちの服装も、軽やかで明るく、季節を先取りしている。

舞ちゃんは、私が前の店から連れてきたアルバイト店員で、肩まで伸ばしたふわふわのパーマを、今日は耳にかけ、顔にかからないようにピンできれいにまとめてある。うっすらピンクのチークに染められている頬を緩ませ、うきうきしているのが伝わってくる。

「店長って呼ぶの照れくさいけど、店長って呼び方かっこいいですよね」

ふふふ、と笑いながら、明らかに店長の私よりもこの店のオープンを楽しんでいる。

私は「そうね」と適当に相槌を打ち、店の入口を見つめ、この店に最初に入ってくるのは、どんな客だろう? と考える。

春の、暖かい日の、新しいスタートだというのに、最初の客を待つ気持ちが、わくわくして待ち望む、というものにはほど遠く、どうにも沸き起こってこない高揚感を、緊張のせいにして無視する。店の入口には、さきほど舞ちゃんが裏返したopenの板がぶら下がっている。

木目をきれいに見せるためにニスを重ね塗りしてあり、そこに淡いピンクの絵の具でopenと書かれている。裏のcloseは淡い水色。文字のまわりを囲むように深緑色の絵の具で蔦植物が描かれている。
天然酵母を使用し、無添加材料に拘った店のコンセプトを大切にするため、看板や内装にも拘った。パン屋「自然屋」は、私が念願叶って開店させた無添加パン屋だ。


焼きあがったばかりのパンの陳列や、トレイやトングの陳列、掃除が行き届いているか、何度も確認したことを、再度確認しながら店内を見回していると、店のドアが開いた。

私の店、オープン初日の一人目の客は、30代くらいの上品な女性だった。

ゆるやかに巻いたパーマ髪。質素なブラウスに柔らかいフレアスカート。左手薬指に指輪。

女性はゆっくり店内を見渡したあとに、トレイを持って、パンを見始めた。おっとりとした動作で、丁寧にパンをトレイに載せていく。くるみを焼きこんだパン、自家製バジルと無添加ハムを使ったピザ、長めのバゲット。数種類のパンを選んでレジへ来る。

「今日オープンですか?」

声も話し方も上品だ。

「お客様がお一人目のお客様ですよ!」

と答えたのは私ではなく舞ちゃんで、「記念すべきお一人目です!」ときらきらの笑顔を女性客に向けている。

「わー、それは素敵だわ。主人が表面の硬いしっかりしたパンが好きなの。今このバゲットを見て、これなら気に入ってくれそうだわ、と思っていたの。無添加なんていうのも体に良さそうだし、こんな可愛らしいお店ができて嬉しいわ」

本当に嬉しそうに微笑みながらパンの入った紙袋を抱え、微笑む客。舞ちゃんも嬉しそうに応対している。

私は置いていかれるような気持ちになり、急いで業務用の笑顔を顔に張り付かせた。



オープン初日は、大きなトラブルなく、滞りなく、無事に終った。売り上げもまずまず、どうにか目標に達した。打ち上げをやりましょう! と張り切る舞ちゃんの提案を断り、明日の仕込みがあるから、と一人店に残った。

長年追い続けてきた夢が叶った日なんだ。緊張もしていたし、不安も大きかった。疲れて当然だ。ひとつ大きく息を吐いて、首を回す。



店からの帰り道、歩道橋に立って車道を見下ろす。生暖かく湿った春風が、首に巻いたストールを巻き上げる。冷たい手すりに胸を押し付け車道を見下ろす。トラック。タクシー。乗用車。時速80キロで走りすぎる車たちの屋根を見送る。手すりをしっかりと握り締める。冷たい金属と、ところどころ錆びたざらりとした手触り。大きく息を吸い込むと、風に混じる微かな花の香り──沈丁花か……排気ガスの化学の匂い。春の夜の匂い。

長年の夢を叶えた日の夜とは到底思えない。この無力感は一体何事だろう。驚くほど、達成感がない。いろんなことを我慢して、多くのことを犠牲にして、たくさんのものを手放して、追い続けた夢だったのに。それが今日叶ったのに。ここがスタートなのに、もうすでに疲労しているのは、なぜだろう。



最初に来た客のことを思い出す。 

全てを手に入れています、という表情に見えた。硬いパンが好きな優しい主人がいて、お金に余裕もあるので働きに出ていなくて、私は家でのんびり家事をして、主人の帰りを待つのが幸せな時間です、と顔に書いてあるように思えて仕方ない。本当に満ち足りている人じゃないと、あんな余裕のある微笑はできないだろう。


そんなことを考える自分に戸惑う。なんだ、私のこの感情は。自分の店を出して、客に喜んでもらうのが私の夢じゃなかったのか。



私は既婚女性が夫のことを「主人」と呼ぶのを聞くたび、違和感を覚える。夫が主人ということは、妻は主人に「仕えている人、奉仕している人」ということになる。「主人」という響きは、その関係性を受け入れ、その関係性に甘んじています。と公言しているようでどうにも馴染めない。夫に仕えていることに甘んじている妻。



いかにも満ち足りている人たちを目の当たりにする日々が始まってしまったのか……という考えにとりつかれ、困惑する。これから毎日、こんなにも何不自由なく幸福に暮らしているであろう人々のために、私は毎日パンを焼くのか。私の夢は、これだったのか。

満ち足りた人、満ち足りた夫婦、満ち足りた家族、満ち足りた生活、我慢のない生活、何も手放さなくても手に入った幸福。私はそんなものを相手に、これからも早朝からパンをこねるのか。満ち足りた幸福な人々を相手に、私がパン生地に込めるのは、果たしてどんな感情か。



携帯が振動する。

「もしもしぃ、由佳ぁ?」

甘ったるい声が響き、思わず電話を耳から話す。ひとつため息をついてから電話を戻す。

「もしもし、どうしたの?」

声が冷たくならないように気をつけながら話しかける。新しい男、私のお見合い話、兄の嫁の悪口。そのどれかしか話題はないので、どれであっても不快な電話に変わりはない。

「それがね、優香さんがね……」

どうやら兄嫁の悪口らしい。電話口で長々と始まる義姉の悪口を私は耳の入口でシャットアウトする。

私は、この人のようにはなりたくない。この人のような「正しくない」生き方はしたくない。男にも金にも生活にもだらしない。私の母。



私は「正しく」生きてきた。親に反抗せず、学校も休まず、学生のときから夢をみつけ、奨学金で短大へ行き、資格をとり、修行しながら貯金をして、念願叶ってお店を出した。自立して生きていくためなら、我慢は当然のことだ。それが「正しい」生き方だ。何かを得るには、何かを手放さなければならないのだ。全てを手に入れるなんてできないし、確実に保障されたものが手に入らないなんて、そんな不安には耐えられない。私は、確実で目に見えるものしか信じない。



母からの長い電話を切り、ため息を吐く。無意識に奥歯を噛みしめていたようで、顎が痛い。ビールを飲みたいと思ったけれど、パンの酵母に影響が出たらいけないので我慢した。



翌日、店に母が来た。場所は教えていなかったはずなのに。どこかのお節介な人が教えたらしい。

「いい店じゃなーい」

素手のままいろんな場所に触ろうとするのをやんわり制止する。

母はいくつかパンを選び終え、会計のときニヤっと笑って「値引きしてよ」と言った。私はいつになったらこの人のことで苛立たなくて済むようになるのだろう。家族は呪縛だ。



母の間延びした声、厚く塗った化粧の匂いまで思い出し、無意識のうちにパン生地をこねる手に力が入る。正しく生きてきたのに。真面目に生きてきたのに。たくさんの我慢をしてきたのに。まだ私は母に振り回されないといけないのか。

ばちん、とパン生地を台に叩きつける。弾力のある生地が台の上に伸びる。重い塊を再び頭上へ持ち上げ、ばちん、と叩きつける。パン生地は、繰り返し繰り返し力強く叩いてこねることで、美味しいパンに焼きあがる。こねと叩きが充分でないと、ふっくらしたパンには仕上がらない。私は思い切り力をこめて繰り返し叩きつける。持ち上げて、ばちん。持ち上げて、ばちん。勢いよく繰り返し繰り返し持ち上げて叩きつける。ばちん。ばちん。私の呼吸と、パン生地の叩きつけられる音だけが、早朝の厨房に響く。



店の売り上げはまずまず好調で、口コミで遠くから買いに来てくれるお客さんもいる。これは順調ということではないのか。
それなのに、最近、全然眠れない。ネットで睡眠薬を購入した。こんなに簡単に手に入るなんて、便利な世の中だ。

オープン初日に最初に来た客は常連客になり、よく店に来るようになった。名前は久美子というらしい。舞ちゃんがいつの間にか仲良くなっていた。夫の名前は大輔。そこまでプライベートな話ができるほど、どうして仲良くなれるのだろう。

常連客といえば、もうひとり、いつも紅茶の焼き菓子ばかり買っていく中年の男性がいる。あの人も、いつもいかにも嬉しそうに買い物をしていくのだ。紅茶の焼き菓子ばかり。あんなに嬉しそうに。



パンをこねていると不穏な感情しか浮かばない。パンに練りこめる私の歪んだ感情。私のこの気持ち、残さず店頭に並べて売ってしまえばいい。客たちは、何も知らずに私のこの気持ちを食べてしまえばいい。きっと、幸せで満ち足りた客たちにとっては、たいした害にならないだろう。私のこの気持ちを、少しくらい分散させることを手伝うくらい、どうってことないだろう。



睡眠薬を買ったサイトで、いろんな薬を売っているのを見つけた。睡眠薬や精神安定剤だけでなく、風邪薬、痛み止め、アレルギーの薬、ほかには、除草用の薬品、鼠駆除用の薬品。何の目的で使用するかは、きっと、購入者に委ねられている。そんな怪しさを感じながらも、パソコンから目が離せない。



パンをこねる。生地を台に叩きつける。ばちん。ばちん。想像するのは、このパンを食べる夫婦、家族、幸せに満ちた人々。パン生地をひとりでこっそり練りこむ。私しか知らない。私だけの仕込み時間。気づかれない程度の、少しだけの、ほんの一滴の秘密。私が犠牲にしてきたものへの、代償だ。持ち上げて、ばちん。繰り返し、パン生地をこね叩きつける。



パンをこねることで私は次第に落ち着くようになった。不穏な感情を全てパンに練りこんでいるから、私自身は、身軽になっていく感じだ。パンが私を浄化してくれている。パンをこねることで私の均衡が保たれている。



「最近、店長元気そうで安心しました。オープンしてすぐから、ちょっと疲れているように見えたので、実は心配していたんです。最近は明るくなってきたから、良かったです」

舞ちゃんはいつも優しい。何も犠牲にしなくても、何も我慢しなくても、こんな風に優しく正しく生きられる人もいるのだろう。それはきっと、環境がそれを許したの違いない。我慢しなくても正しく生きられる環境。



「新しいパンを試作してみたの。舞ちゃん、味見してもらってもいい?」

きらきらした笑顔で私から試作品のパンを受け取る舞ちゃん。何も犠牲にしてこなかった幸せな舞ちゃん。私の新しい試作品。



風が湿っている。来週あたり梅雨入りらしい。



《おわり》

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