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やり残した人間臭いことを

去年の夏休みから、わたしは「母」という役割を意識して置き、人としての【慈しみ】(←湧き出るものが この言葉で適切なのかはわからないが、いちばん近いと思う)で 子どもたちと接するようになった。

簡単に言うと、我が子というよりは身近な大切な人たち、という感じに変わった。

娘 中1、次男 高1、長男 大3、の夏(去年)

思えばこれまでも、兄妹とは連鎖だと思うことは多々あった。兄が成長すれば、下の子たちも勝手にステージが変化していくと言うような。
同じ環境にいて、エネルギーをそのまま感じて、自分も気づかぬうちにそのエネルギーを纏うのだから、変化するのは自然。
当たり前と言えば当たり前。

去年の夏は、下の子の娘の成長が みなに影響を与えていった。
これまでとは違う「大人の道」に娘が入ったこと、いや、大人と言うよりは「女の道」だな。女が与える影響をヒシヒシと感じた男ふたりと、熟女(わたしねw)だった。

男は、より男らしくなり
女は、より慈しみを湧き出していく、みたいな。

なんかね血の繋がりの遠慮のなさと、本来のホルモンの活性化みたいなことが同時で起こっていて、無意識に冷静になろうとしたり、剥き出しになったり、みなの心がうごめく夏だった。

とは言え、彼等は若い。
大きく揺れる純真さも持ち合わせていて、引きこもったり、発散したり、どこにも向けられない矛先を時々熟女のわたしに求めるのだよ。年の功というか、身近な大人としての対応を聞きたいみたいな。

ここでは「母のみ」ではやってられん。剥き出しな無意識の性(の感情)を持っているから。でもわたしは「母」。表面的には「母」としてそこに居て、楽に話せる雰囲気を醸し出し、中身はひとりの熟女(何回使って楽しむねん!)として話も聞いていた。

なんか役割たくさんあってオモロいやん!みたいな。

子どもは成長して大人に変容していく。そこと向き合う「人間」がひとりでも多くいることは、彼等の人生には大きいと思うんだな。

親には言えない、とよく聞いてきた言葉だし、わたしもそのような子どもだったが、もし親が親風を吹かさずに聞いてくれる大人のスペースを持ち合わせる人だったら、心強い味方になるだろうなぁと、うっすらと思っていた。

わたしがそうなれているのかは、、、実際のところはわからないが、なんやかんや話せたり、そんな雰囲気が家の中にあれば、兄妹でも力になれるだろうと思う。

互いに同じところを見て話したいから、同じ位置に立ってみる。同じ立場になってね。
それだけのこと。

夏って、そんな季節だと思う。
なんか人間臭い季節。汗も より臭う季節だし。

そして夏休みって、心休みではないかとも思っている。
引きこもることもできるし、発散もさせてくれるし、動きたくなるし、多感であるが故、瞑想時間も与えてくれる。

瞑想とは、何もせず、ひとりの時間をつくり
無意識の心の声と繋がること。

だからさ、夏って!
この時期って!
見届けて見守って!
そんでもって自分も人間臭くなって!
発散して!

季節なんだな、毎年。

身近な人と心も体も寄せ合って、うようよしたり、飛び上がったりね。

そのあと
すべてを熟す秋の季節がやってくる。

夏の終わりが近づくと、今年はどんな熟し方になるのだろうとワクワクが溢れてもくる。

残り時間も見えてきた夏、
やり残した人間臭いことを、やるべきっす!

写真はこの夏いちばん食べたと思う「卵」。
卵好きなんだよねぇ(特に卵かけご飯)




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