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語りの演劇で「何を語らないのか」ーエイチエムピー・シアターカンパニー『アラビアの夜』ー

(文中敬称略)

ドイツ演劇界において、ポスト・ドラマの文脈で独自に「語りの演劇(Narratives Theater)」という理論を提唱する、ローラント・シンメルプフェニヒの『アラビアの夜』。

世界各国でたくさん、エイチエムピー・シアターカンパニーでも数回にわたって上演されてきたことから鑑みるに、おそらく様々な切り口での論考が出尽くしているだろう。

そんな中、この公演に関わるまでまったく作品に触れておらず、今もときおり稽古場に伺っているだけの私に何が言えるのか、改めて考えてみた。
あるいは、すでにどこかで論じられた話かもしれないが、すこしばかり耳を傾けていただけると幸いである。

稽古を拝見していて真っ先に頭に浮かんだのは、「ここで語られていないものは何か?」ということだ。
言葉の根幹的な部分は沈黙であり、言葉はその「おまけ」に過ぎない。「語りの演劇」である以上、「語られていない何か」が存在する……それを見つけたいと血眼になった。

しかし、こいつがなかなか難しい。幾重にも重なったイメージが連鎖するパズルのような台詞群からは、あまり意味らしい意味を読み取れない。
そもそも、私はこういった芝居は感覚で楽しむほうだし、むやみやたらに意味を探そうとすること自体ナンセンスだとすら思う。

では、なぜ今回は前述の観点でもってこの劇を観ているのか。それは、私がローラント・シンメルプフェニヒの内に太田省吾を見ているからである。

まず第一に、戯曲の根底を延々と流れる「水」のイメージが彼を想起させた。もちろん、水といえば生命の源泉であって、モチーフに用いるのは太田のみに限らない。だから、普通に台本を読んだなら、ごく一般的な演出の『アラビアの夜』を観たなら、このようなことは思いもしなかったに違いない。

決定打として私を突き動かしたのは、演出家・笠井友仁の新たな演出だ。どうやら以前までの上演とは異なるらしいのだが、劇中で眠り続ける女――フランツィスカ――に「神の視点」を与えているのだ。

観劇の際の楽しみが減ってしまう可能性もあるので、この先は多くを語らない。とにかく私が言いたいのは、そこから太田省吾を思い出したということ。

たとえば、『小町風伝』(あらすじは上の記事を参照されたい)における、台詞体で書かれたト書きの果たす役割について考えるのは、演劇を志す者なら誰しもが一度は通る道ではないか。「彼女」もまた、「老婆」「少尉」「男」「子供たち」といった登場人物と同様、沈黙のうちにあるのだ。「彼女」の言葉からは老婆を含んだ、全体を俯瞰で見渡すような視点が感じられる。そう、「神の視点」だ。

ここであえて断言しよう、我々は皆このような、自分をはるか上空から見下ろす、もう一人の自分を抱えて生きている。少なくとも、私にはそういう「もう一人の私」がいる。もっと言うなら、私の中には何人もの「私」がいて、その「私」たちが話しあうさまを上空から見下ろす、もう一人の「私」が存在している……と表現したほうがしっくりくる。

「死」とはなんだろうか。「死の向こう」には何があるのだろうか。「私」は、そうしたことをよく私に尋ねてくる。「死」というものに対してのイメージ、距離感などは人それぞれだ。「死」はどこか非日常的なもの、と捉えている人もいると思う。しかしながら、私たちが生きる日常は、つねに「死」と隣りあわせである。昨日幸せいっぱいに暮らしていた人間が、今日交通事故であっけなく死ぬ。それが現実だ。ならば、この作品で描かれた幻想の世界もまた、私たちのすぐ近くに存在しているのかもしれない。沈黙のうちに語らう彼女たちは、ひとりの人間を鏡で映し出した「もう一人の私」たちの姿。そんなことを、思った。

さて、話を本題に戻そう。これまで述べてきた事柄は、そっくりそのまま『アラビアの夜』にも当てはまるのではないか。だとしたら、より一層のおもしろさが発見できる。

笠井はこの作品を、「音楽を聴いているみたい」と評し、「観客は語りのリズムやスピード感で高揚していく」と俳優に意識づけしている。

だけども、もし仮に、もし仮にだ。今の形をベースに速度を真逆……つまり「能」のごとく、ゆっくりと演じたらどうなるだろう?

それがいいか悪いかは置いておいて、そういうことだって考えられるほどに奥深く、演劇の神髄に迫るくらいの魅力が、ローラント・シンメルプフェニヒの戯曲には、そして笠井友仁の演出には、あるのだ――――

2024/10/02(水)伊藤芳樹

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