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未完の卒業論文「太田省吾論」

割引あり

はじめに

私は病気で大学の舞台芸術専攻を一年留年したので、卒業公演に出演できず、当初の予定では戯曲と論文の両方で卒業するつもりであった。

しかし、退院したとはいえ体調が芳しくなく、どちらかひとつがやっとではないかという判断のもと、一番やりたかった劇作を選んだわけだ。

ここでは、太田省吾の代表作『小町風伝』を読んで書いた文章、そして彼をテーマにした卒業論文の目次とその序論を当時作ったまま載せている。

もし未完であるこいつを完成させたいとか、参考にして論じたいなんてことがあったら、ご一報いただければ嬉しい。

太田省吾『小町風伝』を読んで

夢か幻か。現実か虚構か。過去か現在か。錯綜しながら映し出される、一人の老婆の心象風景。しかし老婆は舞台上において、言葉を一言も発しない。

襤褸の十二単衣に身をつつんだ老婆が、ゆるい風に身をまかせるようにしてゆっくりと現れる。老婆は夢と現の間に身を漂わせていて、若かりし頃の自分に思いを馳せている。二分の一テンポにしたヴィヴァルディの「ピッコロ協奏曲イ短調」の第一楽章が流れ始めると、老婆の夢の中の登場人物たちが様々な家具を運び込み、老婆の貧しい部屋が作り上げられる。音楽が遠ざかり人々も去っていくと、老婆は目を覚まし、いつもの暮らしを始める。部屋の蓄音機からはエディット・ピアフの「バラ色の人生」が流れ、老婆はインスタントラーメンを作りながら、遠い昔、自分を愛した少尉のことを想う。軍服姿の少尉が現れ、彼が戦場へ征く日の思い出が再現されていく。そうして、老婆はかつての二人の記憶を辿る。ところがそこに、現実の住人であるアパートの大家が訪ねて来て、老婆の幻想は途切れる。

やがて大家が帰っていくと、今度は老婆の隣室に住む家族のやりとりが始まる。父とその娘と息子の三人。職場に違和感を抱いている息子は出掛けの挨拶である「いってまいります」を一日の出発にふさわしく元気に発することができない。その息子を父親が叱りつけ、娘がとりなしており、隣の部屋でそれを聞いている老婆は息子のことを案じつつ、また愛おしくも思っている。そうこうするうちに息子は職場へと重い足どりで出かけていく。父と娘も彼等の職場へと街へ出かけていく。そして老婆は、今出かけていったとなりの部屋の息子を自分の幻想の中へ連れ込んで恋人にしようと思い始める。そこへ、このアパートの住人であるもう一人の老婆がやってきて一人で語った後、去っていく。再び一人になった老婆は、蓄音機のハンドルを回し幻想をかきたて、現れた男(隣の息子)との濃密な逢びきを楽しむ。しかしながらその幻想も、医者と看護婦という現実の住人たちの登場によって途切れることとなる。医者と看護婦は、大家に老婆が何故なかなか死なないのかを説明しつつもそれを不思議がっている。老婆は幻想を続けようと蓄音機へと向かう。老婆がハンドルを回した蓄音機から流れてくるフォークダンスの音楽にのってダンスを踊る子供たちが現れ、幻想的に変貌した部屋の中で医者たちもダンスの輪をつくり、やがて去っていく。さらに老婆自身の部屋が解体すると同時に現実空間が崩れ、家具は運び去られ、舞台からは一切の現実が消失し、老婆が一人残される。老婆は男を幻想の中へ呼び寄せ、逢びきを楽しむ。二人は泉の水を飲み、愛を語り合うが、次第に男は遠ざかっていき、やがて消え失せる。一人きりになった老婆はゆっくりと風に身をまかせるように去っていく。

これが、能の「卒塔婆小町」を元にして書かれた、この作品のおおまかなあらすじである。ここで着目すべきは「老婆」「少尉」「男」「子供たち」といった登場人物たちは舞台上において一言も台詞を発しない、いわば「沈黙」のうちにあるということである。しかし、台本上には台詞が存在し、それは饒舌と言えるほどのものであるということだ。その点に際し、作者である太田省吾は台本の冒頭のト書きにおいて、こう記している。
「沈黙のための台詞というのは、おかしなことのように思われるかもしれない。しかし、考えてみると、わたしたちは応々にして、直接ことばにしていることを、内的にもそのまま語っているわけではないし、また、沈黙のうちにあったとしても、それは内的にも無言であることをかならずしも意味してはいない。つまり、現実においては、われわれはむしろこういった矛盾する言語的事態を常態として生きているのであるといってよいように思われるのである。」

劇作家太田省吾によって書かれたこの沈黙のうちにある台詞郡が、一九七七年に矢来能楽堂で上演された際には演出家太田省吾の手によってカットされたものであるというのは周知の事実であるが、ではこの劇において沈黙する人間と言葉を発する人間の違いはなんなのだろうか。端的に考えれば、幻想の世界を生きる人間か、現実の世界を生きる人間か、の違いではなかろうか。では、この作品でいうところの「幻想の世界」とは何を意味するのだろうか。それはこの作品が能舞台で上演されたことからも考えるに、「あの世」に近いものであるということは想像に難くない。つまり太田が描こうとした「小町風伝」の世界とは、この世とあの世を行き来する「幽顕二者の夢幻世界」なのだろうと言える。

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