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歴史、勉強する意味が分かりません

「日本史はまだわかるけど、世界史なんて無理。全然入ってこうへん。」日本史と世界史どちらが好きか、ざっと一クラスの生徒たちに聞いてみたら、ほとんどが日本史の方を選ぶ。

中間テストが終わって、これから期末に向けての範囲に入っていく。

単位のためには必修となっている教科は好きでも嫌いでもちゃんとテストをクリアしなくちゃいけない。どうせやらなければいけないのなら、せっかく時間を使って勉強ということをしないといけないのなら、なんとか楽しく取り組んでもらいたい。面白いと思ってもらいたい。そう切に願いながら、不器用にいろんな知識を寄せ集め、興味を引きそうなネタを仕込む。なんとか面白いと思ってもらえますように。退屈だと思って居眠りしてしまう子供たちが一人でも減りますように。

授業が終わって、一人の生徒が「なんで歴史勉強するのか意味が分かりません」と伝えてくれた。私は「何のために歴史勉強するかわからへん、てこと?」とその質問を深堀してみた。その子によると、そうやって勉強することが自分にどう関係しているのかがわからないということだった。

私はその子に「将来、もし海外の人と接触する機会があったとき、その人の背景、歴史勉強していることでちょっとでも知っていたら、それで相手のことも理解できる部分もあるし、コミュニケーションも深まることもある。世界中の人とお友達になろうっていう目的で勉強するのってどう?」って聞いてみた。
「それやったら、なんかやる気も出てくるかも。」そう、その生徒は答えてくれた。
その子と一緒に話を聞いていた別の生徒が「おれトルコ人の友達いてる」って言ってくれた。
「え~!トルコやったら今日やったところやん。そのお友達に今日習ったこと話してみてよ。またそのこと先生に教えて。」

今日、生徒たちとの会話を通じて自分の中でひらめいたこと。

数学であれ、国語であれ、理科であれ、何の教科であれ、すべては生徒たちとのコミュニケーションの媒体に過ぎないとも言えるかもしれないってこと。もちろん、その教科を好きになってもらって、テストでいい点を取ってもらうことはうれしいこと。そしてその教科をちゃんと理解してもらうためには自分自身日夜研究を続けることは大事。だけど、それは生徒とのコミュニケーションていうベースがあってのことだとハッとした。

どうせyoutube動画みたいに面白くて上手な話し手にはなれない。どうせ、どうせ、って思っていたけれど、今日、生徒たちとの会話で、学校の授業には学校の授業なりのコミュニケーションがある、これは、動画とかオンライン配信じゃきっと感じられないことだって自分の中からそんな答えが出てきて本当にうれしかった。

生徒がいて、先生と呼ばれる立場ではあるけれど、すべてを知っているわけじゃない。情報がいろんなところから自分でつかもうと思えばつかめるこの時世において、知識を伝えることだけが授業じゃないと思いつつも、テストというものがあるから、そこはちゃんとわかるように伝えないといけない。

いつも生徒たちに言っていること。
「先生にも知らないことはいっぱいある。授業やっている中で、みんながこれ面白いって思って、検索して、何か発見があったらいつでも教えてね。」

一方的に教える立場じゃない。共に学んで、共に成長しあう。
私はいつまでも完成しない。

今日も本当に心から、みんなに出会えてよかった~~~って思った。

次の授業で、導入の時、話してみようっていうネタが思い浮かんだ。

コミュニケーションがあっての授業だなってつくづく思う。


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