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サッカー アルゼンチン 日本

アルゼンチンに住んで5年になる。この地のサッカー熱は強烈だ。これだけ熱くなれるというのがうらやましくなるくらい。


日本の敗戦について。やはり歴史が浅いからかと思う。強豪と呼ばれる国が多い南米とヨーロッパにおけるサッカーの歴史の重みがそのまま勝負に出るのかもしれないと、どうしても思う。日本は、技術を習得することに長け、そしてそのための努力を惜しまない故に、短期間で力をつけることができる。(これはサッカーに限ったことではない。)しかし、日本の敗戦を見て、技術だけでは到達できない境地があるようだと感じた。それは、経験、時間の積み重ね、ということもできると思うが、もっと根本のところで日本人が持っていないものが絡んでいる気がしている。あるいは、もし、いつの日か、ワールドカップで優勝する国になったとしても、その勝利が意味するものが違うということかもしれない。アルゼンチン人には、もう、DNAにサッカーが組み込まれているような気がする。


以前、メキシコに暮らす医師と車の話をしたのを思い出す。日本のメーカーは技術的には優れているのだが、ヨーロッパの高級車のように、車という乗り物に居住空間というか滞在空間としての居心地の良さを追求する精神がないと言ったのをとても面白く聞いた。何故車を造るのか。何故、ボールを蹴るのか。


日本は何でも平等にし、違いを嫌う。ここ南米やヨーロッパでは、社会的な階級の格差は歴史的にそして必然的に存在しそれが許容されている気がする。持てる者が、持てない者を援助することは普通に行われ、よって持てる者と持てない者がいることがすべての大前提である。「違う」ことが前提にある。ボールを蹴ることで、違う階級に行けるかもしれないといういわばハングリー精神で、貧しい地区の出身である選手が豪邸を建てる話はよく聞く。日本の「平等よき哉」では、安心感というピッチでいかにしてボールを蹴り、試合に勝つかという技術と訓練に明け暮れることになる。

「負け組」か「勝ち組」かというような、子どもっぽい妬みや優越感という感情世界からは考えられないほど残酷な「差」あるいは「違い」を、日々生活の中で目にする場所でボールを蹴るということが意味することは、やはり同じであるはずがないのだ。


今の日本で、”血沸き肉躍る”経験をすることはほとんど不可能になっている気がする。安定を求め、衝突を避け、苦しむことを事前に防ぐのだ。攻撃される前に、攻撃されたらどうするか、一生懸命考えている。
大いに結構。
しかし、何が起こるかわからない未来に向けて今を使うのではなく、今を、今だけのために使い、そこで100%燃焼するというような生き方ができれば、ワールドカップで優勝したときの喜びが何倍も大きいのではないだろうか。

それは、今、という一瞬に、裸で立っていられるか、ということだと思う。



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