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子供がいれば人生は幸福なのだろうか?

【文字数:約3,000文字】

 NHKのEテレで夜11時から、世界各地のドキュメンタリーを放送する「ドキュランドへようこそ」という番組がありまして、少し前に「ひとりぼっちの私たち」(原題:ALONE TOGETHER)と題する作品が放送されました。
 制作:Anemos Produtions 2019 イスラエル

 本稿は同作品を観ながら考えたことをまとめるもので、読み物としての価値を伴わないであろうと、まず最初に断っておきます。

・本作の概要

 このドキュメンタリーの中心となる人物は病院にて、とあるボランティア活動をするラヴィットという女性です。

 定まった住居のない、ホームレスと呼ばれる人々に食事を提供するNPO組織は日本にも存在しますが、彼女はその活動の他に育児放棄された新生児の世話をする活動もしています。

 子供がいれば親もいるはずなのですが、母親たちは出産後に失踪しているらしく、作中には一度も登場しません。
 熊本県の医療法人聖粒会が運営する慈恵病院では、通称「赤ちゃんポスト」、正式には「こうのとりのゆりかご」という名前で新生児を預かる取り組みが行われており、その活動に近いものといえるでしょう。

 養育者のいない新生児に里親が見つかるまで、ラヴィットを始めとしたスタッフたちが世話をします。
 しかし、本作が主眼とするのは親に捨てられた新生児たちではなく、あくまで1人のスタッフであり、1人の女性でもあるラヴィットなのです。

・母親になれなかった苦悩

 ラヴィットは25年に渡ってイスラエル国防軍に勤務し、退役後に現在の活動を始め、作中で49歳を迎える独身女性です。また、子宮内膜症を患って子宮の摘出手術を受けたそうです。

 身体的な理由から産みの母親になれなかったラヴィットは、育児放棄された新生児たちの世話をしているうち、自分も子供を育てたいと考えました。
 ケースワーカーに相談して、具体的に里親になろうかと考えて、迷い、結論としては今の活動を続ける選択をするのですが、その葛藤は人間の生きる理由を考える上で、きっと誰しも1度は遭遇するものではないでしょうか。

 何らかの理由で子供を持たない、あるいは持てない夫婦は存在します。

 私の親と親戚は流産を経験しています。幸いと言うべきか判断に迷いますが、その後に生まれたのが私であり、従弟です。親戚については小さいながらも流産した子供の墓を建てており、一人っ子の従弟に対する向き合い方と通ずる部分があるような気がします。

 私自身の話だと、好意を感じていた相手は交通事故により亡くなりましたので、何かしら行動を起こさない限りは、このまま独身で過ごすことになるでしょう。
 そういった自らの状況もあって、本作が胸に沁みたのかもしれません。

・子供に奪われるもの

 ラヴィットが里親になるのを迷ったのは、子供の世話をするために今現在と同じ生活ができないと考えたからです。
 確実にその予想は正しく、子供中心の生活になるのは目に見えています。

 ふたたび私自身の話で申し訳ないのですが、私の母は過去に看護師をしており、自立した女性として自らの仕事に自信と誇りを持っていました。
 父と結婚後、仕事を続ける選択をしたものの流産を経験し、次に生まれた子供の育児に忙殺され、精神を病んだ結果として退職しました。

 私の幼いときの母は、ひたすら横になっている記憶しかありません。今でこそ精神医療が一般的になりましたけれど、その頃はうつ病への偏見も少なからずあったことでしょう。
 なにより、自らが病を患った人々に接する看護師だったわけですから、そのときの悔しさは、筆舌に尽くしがたいものがあったはずです。

 もしも私さえ生まれなければ、母は幸せだったのではと考えます。意味のない妄想に過ぎませんが、少なくとも人と関わるのを避けるようになった今現在の母とは違う、明るい社交的な人間になったことでしょう。

 里親になることを迷うラヴィットの姿は、過去における私の母と重なる部分があるように思います。
 自身の体に多大な負荷をかけることがなくとも、1人の独立した人間になるまで目を離せず、体力がつくまでは死の危険がつきまとうのです。

 私には記憶がないのですけれど、幼い頃の私は病弱で、とある症状で2回は死にかけています。そのときの手術痕は今もあり、うち1つは今後の状況次第では最悪、ガンになることでしょう。

 そうした経緯は母の精神に対して、負の作用をもたらしたであろうことが容易に想像できます。

 生むのに苦しみ、生んでからも苦しむ。

 もしも子供を持つことが最良なのだと説教を垂れる人間がいたら、私は声を大にして言いたいです。

他人のことにぐちゃぐちゃ口を挟むな!」と。

・子供は親を選べない

 本作は里親になることを迷うラヴィットに主眼を置いていますが、引き取られる側の子供の視点から考えてみます。

 日本において親に何らかの理由があって養育ができない場合、新生児は乳児院に預けられます。その後、里子もしくは養子となって義理の親に引き取られなければ、児童養護施設へと移ることになります。

 前者は血が繋がらないとはいえ、家庭の中で「普通の子供」として育つことができます。一方、後者は18歳もしくは20歳までと期限があり、それ以降の生活に大きなハンデを負いやすいと聞いています。

 どちらにせよ、子供の側には何ら責任がありません。それでも彼らは、必ず次のように考えるのではないでしょうか。

「なぜ私は生まれたのだろう?」と。

 それは血の繋がった親に育てられた、おそらく恵まれた環境にある私自身がよく考えることです。
 かつて看護師という仕事に従事して、自信と誇りを持って働いていたであろう母親は、私の記憶には残念ながら存在しません。学校から帰った子供が常に寝ている母を見て、何を思うか想像してみてください。

 子供の存在が母の人生を破壊したことは確実で、私は「生んで欲しい」などと願っていません。
 さらに付け加えるなら、「あなたを育てるのに失敗した」と言われる筋合いもありません。

 血の繋がらない里親に引き取られても、自身の出生にまつわる負の側面は、その子供の生涯に渡って付いて回ります。ましてや養護施設で育ち、義理の親さえいなければ、決して心中は穏やかでないことでしょう。

 親は子供を捨てられますが、子供は親の血の呪縛からは逃げられません。

 それだけは残酷な真実だと思います。

・おわりに

 本作は里子を受け入れるかに迷う、とある女性のドキュメンタリーです。

 里親となって自分の生活が変わることに不安を覚え、上手く育てられるかにも悩むのは当然で、犬や猫といったペットを迎えいれるのとは訳が違います。

 最終的にラヴィットは自らの生活を優先し、里親になるのをやめました。その決定を我が身の可愛さ故だと罵ることは、おそらく誰にもできないでしょう。
 里子を受け入れることで得られる幸福もあれば、不幸もある。それは様々な家族の有り様を見れば、あえて説明する必要すらないかもしれません。

 成長していく子供と過ごす日々は幸福であり、充足した理想の人生です。しかし、必ずしも理想通りにはいかない場合もあって、そもそも子供を授かることができない夫婦もいます。

 私は自らの生い立ちも含め、この記事を読んでくださった方に伝えたいのです。

 子供と親は互いに幸福になりたいと願う、独立した1人の人間なのだと。

なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?