『愛と崇拝』

彼の研究室はいつでも散乱状態で、何か他の生物の巣のようだ。
その散らかり様といったら、最早清々しいほど。

書き損じるたびに丸めてぽいぽい投げ捨てるので無数の紙の塊が足元を覆っているし、それに紛れてインクの切れたペンや携帯栄養食品の空箱も転がっている。

それらを足で退かせば、どの装置のものともつかない本数の配線が床を這っていることにも気が付く。

棚に収まりきらなかった本たちは部屋のいたるところで見上げるような塔を作っていて、とにかく足の踏み場がほとんどないのだ。

この有り様を目にした者はみな必ず、「まさしく奇才・天才の部屋だ」と納得してゆく。
私も最初そう思った。

 「いい加減、片付けさせてください」
 「やだよ。このほうが落ち着くの」

私が動かすとどこに何があるか分からなくなってしまうそうだ。
彼なりの配置があるらしいが、この状態では何が何やら。

 「それより、今度の学会も君が同行してくれるんだってな」

研究室の惨状を咎められそうになったのを察知してか、話題が飛ぶ。

 「ええ。あなたの支度も済んでいますよ。……何故?」
 「最初、君の名前はなかった気がして」
 「そうでしたか」
 「そうだよ。ねえ、またやっただろう」

私をじっと観察しつつ足を組み替えて、彼はくすくす可愛らしい声を響かせた。

 「さあ。おっしゃる意味が分かりませんね」

試しているのだ。
この人は、わざと私でない誰かを同行者に当てて、私の出方を楽しんでいる節がある。
そうして、私があの手この手で同行の権利を奪取すれば、満足そうに茶化すのだ。

 「ふふ、君のそういうところ、好感度高いよ」
 「それはどうも。第一助手の私でなくて、誰に務まるというのです。毎度毎度、あなたも人が悪い」
 「君の熱意を見たいのさ」

ああ。こういうお茶目な方だから、他の誰にも任せられない。
彼の右腕に足るのは私だけ。研究でも、それ以外でも。

事実、彼は研究以外のこととなると、私がいないと何ひとつまともにできない。
それはこの研究室を見れば一目瞭然だろう。
身の回りのお世話も私の仕事だ。

彼の頭脳はこの世の奇跡。
誰の手にも触れられない高次元の領域で輝きを放つ、唯一の存在。
私にとっては尊い尊い神そのものだ。

彼の思考を妨げるものがあってはならない。
彼が思うままに才能を発揮するためならば、捧げて惜しいものなどこの身にあろうはずもない。

果てるまで傍に置いて。
私だけを必要として。
私はあなたを愛している。

そう告げるたび、彼は呆れた笑みで、「それはさあ、単に僕のここが好きなんだろ」と、頭をこつこつ突いて見せる。

 「違います」
 「いやいや、違わないったら。君は新しい環境で奇人扱いの僕が珍しくてちょっと盛り上がっちゃっているだけ。愛してるなんて、軽率に口にするもんじゃないよ」
 「博士」
 「職場だし」

チェアの背を大きく仰け反らせ、んん、と伸びをする。
もうずいぶん前に私がお淹れしたコーヒーに口を付けながら、彼……博士は、今日もため息のごとく漏らす。

 「君のそれって、愛じゃなくて信仰なんだよなあ」
 「尊敬と、紛うことなき愛です」
 「ははは、だから一緒くたにするなよ。覚えたての子供じゃあるまいし」

揚げ足を取り合ういつものやりとりの最後には、博士にたしなめられて言葉を失くすのだと分かっている。
博士は決して声を荒らげることなく、駄々をこねる子供に言い聞かせるように穏やかに、しかし明確な拒絶を滲ませて、ただ勘違いだよと、普段の飄々とした様子は切り離した大人の顔で笑うのである。

 「子供扱いしないでいただきたい」
 「じゃあれかな、文化の違いかな。君の国では愛の定義付けにかなり柔軟とみえる。まさかこんにちはと愛してるが同義なのかい」

私が食い下がれば、博士の言葉もいよいよ辛辣になってくる。
一本ずつ針を刺すようなそれ。
穏やかには違いなくても、どこか面倒くさそうなそれ。
暗にこの話を終わらせたいのを察しろと迫っている。

 「君って賢くて情熱的で頼りにもなるけど、ちょっと遊ぶとしつこいよな。おっきな犬みたい。信仰心に忠誠心……ま、いい部下か」

聞きながら、じりじりと、自分の内側が焼けるのを感じる。
動揺はしない。これはいつものやりとりだ。
毎回こうなるのを分かっていて、それでも毎回私を試してからかってくるのだから、そんなつもりじゃなかったとは、何の狙いもないのだとは言わせない。

あなたは知らない。
私がここで出会うより前からあなたを知っていて、生ぬるい感情論などでは表し尽くせぬ烈火なる憧れに突き動かされ同じ道を目指したことを知らない。
そして、ここで過ごした日常のすべてが、激しい憧れを甘やかに変質させたことを知らない。

何も知らないからあなたはずっとそんなふうで居られる。
私がいつまでもあの頃のままだと思っておられる。
私をこうしたのは、あなただ。

 「あなたには自覚が足りんようです」
 「は?  何なの」

気ままに私を振り回すその無邪気な鈍感さがどれほどの純度か、私もひとつ試させていただこう。

誰よりも思考実験に長けていて、計算がお得意なのをよく知っている。
大人と子供とを器用に使い分けて自分の気に入るようにしてしまう魔性を秘めているのもよく知っている。

そうしたずるさも私には愛しいし、博士もそれを見抜いているからこそ、こうもわがままに振る舞えるのだろう。

他の誰かに同じことができるのか。こんな私だからのはずだ。
私の弱味を握ったと思っておいでか。だとしたらそれは致命的誤算といえよう。
どんな姿もただただ愛しいとする私の情念の深さを見誤った甘さすら好ましい。

数字ばかりが詰まった頭蓋を溶かし、神を宿した美しい脳に、この世には数式で量れぬものがあることを教えて差し上げたい。

 「何だよ、怒ったの……だって君が愛してるなんて真顔で言うから」
 「構いませんよ。困らせているのは分かっていましたから」

博士に私の影が落ちる。
困惑の表情でこちらを見上げる様の、何と可憐なことか。
大きな瞳は不安げに揺れながらも私を捉えていて、覗き込めば宇宙のような漆黒の中に私だけ映されるのが心地よかった。
もっといろいろに揺らして見せてくれと思う。

 「お遊びが過ぎるとどうなるか、興味はありませんか」
 「……なくは、ないかな」

好奇心旺盛なあなただから、手を緩めないと決めたのだ。

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シナリオではありませんが

愛憎って、あらゆる感情のなかで最も強くてドラマチックだなっておもいます

私は、これまた趣味……よりもっと軽い、赤ちゃんが車のおもちゃブッブーして喜ぶようなレベルですが……作詞・作曲もします
このお話の結末を曲にしてもいるくらい、こういうふたりもすきです

挑発し探り合うビタースウィートな恋愛も、色気があっていいよね
いい大人同士がね、執着し合ってね、情熱的に狡猾に大人ぶってね、結局どうしようもないところへ堕ちていく感じがね

『 in to my box 』
https://note.com/rinchaaaaan/n/n85dfd9be75e3



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