私と、ある一冊の本の出会い
頭の中がお花畑みたいだとか、いつも楽しそうだとか言われるが、そしてこんなこと軽はずみで思うべきではなかったが、大学で2回、絶望して本気で死にたいと思ったことがある。もちろん今は、昔のように焦燥や絶望、罪悪感に満ちたそれはない。幾分か落ち着いた、毎日が瓶の中に金平糖をコロンと入れるような、なにか違った感覚である。それは、昔を完全に忘却したわけではなく、受け止めることができたからだとおもう。そのきっかけを、そして多くの出会いをくれたのがある一冊の小説であった。今回、この小説と、その作者に感謝を伝えるために書き綴っていこうと思う。
一度目、絶望したのは、入学時。地方の大学に入学することが決まり、とりあえず親元から、そしてなんでもあるようで何もない都会からの逃亡劇に成功したことに安堵した。引越しの片づけもおちついて両親に入学前に渡された紙を見たとき、絶望した。その紙には両親がネット上の相手と会話した内容が張り付けられていた。内容は、韓国人と中国人に対する誹謗中傷。別にそれが意見であれば一意見として受け止めるし、変に批判するつもりもない。それに、ここではそういう話は控えたい。しかし、、、しかし、だ。両親の知らなかった一面を見たと同時に、両親がいまだ私に付きまとっているようで、声が出なくなった。思えばこの逃亡劇も結局は親の援助なしではなし得る事ができなかったことにも絶望した。私のこの、一瞬勝ち取ったように見えたこの決断はあれだけ離れたがっていた親によって支えられているのだと。また、洗濯も料理もできない自分の無力さに、呆然とした。今まで勉強だけ必死にやってきて、家事も何も教わっていない。家賃の払い方も、とりあえずどう生きたらいいかがわからず自分が「空っぽ」な器であったことに気付いた。米のとぎ方がわからない、芯までご飯が炊けていない、洗濯機の柔軟剤の入れる場所もわからなかった。この時、自分の「空っぽさ」が恥ずかしくなり、また両親がいまだ私に何か語りかけているようで、人生で初めて「死にたい」と思った。でも、それと同時に何か、人間の卵として、自分が存在できた気もした。(思えば、私はそもそも生きている感覚すらなかったような気がする……。) そこから、「人間」になりたいと思って、なんでも頑張った。本も、たくさん読んだ。そして、ガチ勢っぽいボランティア団体にも入った。ここに入ったら、自分の思考力も身につくし、発展途上国の助けとして自分の生きてる証を刻みこめると思った。実際、先輩たちはすごかった。同期も頭がよくいつも劣等感の中で生きていた。けれども本を読めば、「本なんか読み続けても意味がないんだよ、考えることが重要なんだ」と言われたこともあった。思考力のない自分は、ただ馬鹿が知識だけつけていても意味ないんだよと言われているようで言い返すこともできなかった。
二回目は、2回生のバイトの時だった。バイト先は旅館を選んだ。住んでいる周りに働ける場所がなく、しぶしぶ選んだところが最悪で、後から気付けば時給換算で500円程度だった。女将さんの存在が怖くて、「否」とすら言えず、毎日他の従業者のおばあちゃんたちにもいじめられながら過ごした。朝は、6時半出勤でバスがないのでタクシー、でもタクシーも高いので、4時に起きて1時間半ほど山を登った。夜は、9時半に終わるのでまた同じ道を下って歩いた。お茶碗を投げつけられたり、ゴキブリの入ったおでん鍋を洗わされたり、飲めないのに無理やり酒を飲まされたりしたこともあった。この時、どこか「努力は報われる」という考えがあって続けていたが、学校なんかには行かせてもらえず、もう精神的に限界だった。
ある朝、山を登っているときいつも通っていた墓地の、墓一基、一基が朝日をあびて輝いているのを見たときに、自分の心の中が何かあたたかいもので満たされる感覚になり、立ち止まってしばらくそれを見ていた。静かな墓地は何も言わずただそこに存在し、登ってくる朝日によって輝く灰色の墓石が私の心を惹きつける。それは、死を意味する墓地、そしてそこで静かに眠る死人たちなりに、生きている私に何かを語りかけてくるようだった。この語りがもしかしたら死への誘いだったのかもしれないし、そもそも何もなかったのかもしれないが、この瞬間から何か動的なものが私の中で生まれた気がした。
このきっかけは、「空っぽな私」が満たされたいと思う感覚を呼び覚ましてくれた。そうしてもう一度、大学に通いたいと思うようになった。そんな私を助けてくれたのは、一冊の小説であった。なぜそれを読もうと思ったのかも分からない。名前だけは前から知っていて、ただ、感覚的に引き寄せられた。その小説は、はやり病という不条理に対して抗い続ける医者とジャーナリストの物語であった。彼らは、自分のことに誠実で、いつでも惑わされず、明晰な思考を持っていた。全人類の救済を願うよりも生きている具体的なその人を助けたいと願い、病にかかったかかかってないかの判定をする。結局その流行病には打ち勝てず、むしろ病のほうが勝手に去って行った。病が去ったことを喜ぶ周囲の人に対して、医者は犠牲者のことを思うと喜べずにいた。この医者の対抗を読んで、私の反抗心はふつふつと芽生えはじめた。そして、それが爆発したのが、女将さんが、先に辞めてしまった仲居さんの悪口を言っていた時だった。私とはそれほど仲はよくなかったが(私がいじめられていたのに口をはさめばいじめの標的が今度自分に行くのは分かっていたので)、あんなに女将さんに尽くしていたその人の悪口をいう権利は女将さんにはない、と言いたかった。でも、この女将さんはそれを言ったところで聞いてくれないし、また何かを投げつけられると思った。そして、月の最後の出勤が終わって、次のシフトを出す時に、「もう忙しいんで、次のシフトは言えません。」と一言言って、急ぎ足で帰った。解放感と、罪悪感と、これからどうしたらいいかの不安感で頭が混乱していた。
この後、とにかく学生に戻りたくなって、「自分の空っぽさ」をとにかく満たしたいと思った。そして、勉強したい一心でゼミを探した。この時勉強したい内容なんか考える暇もなかった。なんせ他の同期より半年遅れており、その締切さえもギリギリだったからだ。ゼミの教授一人ひとりと話している中で、みんなに「空っぽさ」を見透かされているようだった。誰もが、「テーマも決まっていないのにうちのゼミではできないよ」と言っているように思えた。そして、「空っぽの自分なんかが決して入れない」と思っていたゼミが最後で、その門をたたいた。その時もう必死で、「いろいろなことに興味があるから、研究テーマは決まっていないが入れてほしい」と、教授に懇願するみたいに話していた記憶がある。教授から許可が下りた時、うれしくて声をだして泣いた。そしてすぐさま研究テーマを探していると、ふつふつと思い浮かぶのが「あの小説」であった。自分を変えてくれたあの、小説の作者のことをもっと知りたい、卒業論文でなにか、発見できたらと思った。
「私が、興味があるのは、〝不条理〟です」。これが、私と『ペスト』、アルベール=カミュ、そして彼の周りのJ.P.サルトル、実存、そしてフランスとの出会いであった。 変化も停滞も、何もかも、経験してないから何も言えない、けれど今はもう、怖くない。
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