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儚さ(後編)

 四月になった最初の満月の日に、私は彼女に会うことができた。
 またしても真夜中に道を歩く。真っ暗だけれど、いずれ明るくなること私は知っていたのでもう怖くなかった。
 歩を進める。彼女の美しい姿を目に焼き付けたくて、急ぐように小走りに私は歩く。
 

 頂上に着くと少し私は肩で息をしていた。汗もかいている。私は彼女の腰まで伸びた黒い髪に憧れて髪を伸ばし始めていた。まだまだ肩に届くくらいだけれども、それでも首の後ろ側は熱がこもって暑かった。
 ただ、そんなことはどうでもいいと思えるくらい、彼女は美しく踊っていた。
 丘に登る前は少し雲がかかっていたはずなのに、頂上に着くと雲は引いていた。私が初めてたどり着いたあの日のように、大きな月が彼女に光を注いでいた。
 そして彼女は、その光を自分の身体の中に溜め込みながら、まるでそれをエネルギーとするように踊りに昇華させていた。
 

 私は近付いて見ることにした。前回はすこし離れたところで見ているしかできなかったので、もっと近付いて見たくなった。
 なるべく足音を立てないように、彼女の踊りを邪魔しないように、舞台に近づく。彼女の後ろではいつも通り噴水が優しく水を流している。近付くとちょろちょろと音を立てているのが聞こえる。
 そして、彼女の息遣いが聞こえた。
 不規則に吐き出される彼女の息と、消えそうな音を奏でる噴水と、時折聞こえてくる森のざわめきが音楽のようになって私の脳裏を支配した。
 顔に当たる風が気にならない。ただ視界を前髪が邪魔をする。それだけがうっとおしくて、私は前髪をピンでとめた。
 視覚と聴覚に与えられた情報が、私の脳内をジャックする。そして、その場でまた動けなくなってしまう。彼女の動きに目をとられ、動き出したときに吐き出される息遣いが耳に届く。
 動きは不規則なのだが、視覚と聴覚がリンクしているその感覚が心地よかった。
 いつまでもその場で立ち竦んでいられるほどに、私をつなぎとめていた。
 最初に出会ったその日よりも明確に私をその場につなぎとめていたし、何より私は彼女とつながっているような感覚を味わえた。
 

 いつものように時間の感覚が分からなくなるくらい立ち竦んでいると、彼女が前回と同じように、腕を、月を指さすように伸ばし固まった。
 指先は光に照らされていて、いつものように光っていた。長く細いその指が私の頬を触れたことを思い出す。少し冷たい、それでいて長く細い指が私の頬を包み込んだことを思い出す。
 そして前と同じように私に対してお辞儀をする。
 少しだけ、ほんの少しだけ恥ずかしそうな微笑みを彼女は私に向けて、前と同じように私に手招きする。
 パンっ、という音が頭の中で小さく響くと、私は動けるようになっていた。まるでエサを前に「待て」を受けていた犬のように、私は小走りで彼女のところへと向かう。
 再び会えたことがうれしくて、私は彼女の近くへと一直線に歩き、横に座った。
 彼女は初めてみたときと同じように白いワンピースを着ていて、相変わらず美しく透き通る白い肌に月の光をとどめていた。
 私は前回よりも自分の話をした。
 彼女に聞きたいことも沢山あったけれど、彼女は答えないから。何も聞かない。ただそれで良かった。だから私は自分の話をした。
 自分の家のこと。両親が不仲であり、妹が自分よりも期待されていること。そこに関しては仲が悪い両親の意見が合っているということ。
 自分が好きな男のこと。いつも部屋の片隅で本を読んでいる彼と、どのように出会い、どのような話をして、何故彼に惹かれているのか。
 私が付き合っている子のこと。何をしてその子と過ごしているのか。その子以外にさっき話した好きな人ができてしまったということ。そして、付き合っている子と同一の性別であるということ。
 

 私は女の子と付き合っている。
 年下の、一つ下の学年の女の子だった。中学の部活の後輩で、その子に中学卒業とあわせて告白をされた。中学は女子校だったので、たまにそういう話を聞いていたけれど、私に対してそういう好意を抱いていくれる人がいるとは考えもしていなかった。
 そして私はその告白に対して了承した。
「いいよ」と回答した。
 ただ、それが果たして正しいことなのかが分からなかった。自分自身の経験も無い状態で女の子と付き合うということが正しいことなのかが分からなかった。
 女の子に対して特別な感情は無かったのだ。ただ、興味はあった。でもそれは、「私はああいう風になれない」という考えからくる興味だった。だから私とは正反対の考えを持っている同性というものに、興味はあったのだ。
 だから私はその子と付き合った。
 私が持っていない可愛さと、健気さと、実直さを持ち合わせていた彼女の告白に応えた。
 おそらくそれは純粋な好意ではなくて、歪んでいるとは言わないまでも、相手の好意に応えたとは言い難いのではないか、ということはずっと考えて来たことだった。
 付き合い始めて二年が経つ。あの子は決して私と同じ高校に行きたいとは言わなかった。
 重い、と私が思うと考えたのだろう。それすらも、私にとっては新鮮な感覚だった。
 性経験だけが重なっていく処女という立ち位置を思い出す度に、少し自分でも笑ってしまう。それもその経験は女の子相手の、それも一人だけなのだ。
 

 そういう心と身体のアンバランスさを持ち合わせているときに、好きな男ができた。
 それは明確な好意だった。私はその人に好意を抱いていた。それも新たな感覚で最初は戸惑った。
 別に女の子同士で付き合うことがどうのこうの、という話ではない。そんなことは古今東西溢れていた話なはずだから。
 ただ、知らない感情だった。
 もちろん付き合っている子に対しては全く愛情を抱いていないわけではない。
 身体を重ねているとき、唇を合わせているとき、そこに愛情はあった。
 抱くのはいつも私で、その子は抱かれていた。私は彼女の中の実直さを愛でるように抱いていた。
 漏れる吐息も、垂れる汗も、響く声も、その全てが私に向けられているあの子の姿だったから、それを包み込みたいという気持ちはあった。今でもある。
 ただそれは、もう身体を重ねていないと感じられない感情だった。
 だから私はあの子の実直さを愛でることで、彼女がつなぎとめていたいと考えているであろうこの関係性を、続けることができた。
 そんな歪んだ関係性を続けていることに、ある日気付いてしまった。それは好きな男に出会った日だった。
 自分の中にある、人に対して好意を抱くという気持ちを認識してしまい、私は気付いてしまったのだ。
 この関係性は健全ではない、と。

 そこまで話をして自分で驚いた。そこまで自分の頭の中を整理できているという事実と、その内容がすらすらと彼女に伝えることができたというところに。
 彼女は私の話を聞きながら、ずっと私の眼を見てくれていた。時折頷き、そして私の話を促した。少し垂れ眼の彼女は真剣な眼差しで、それでも私の話を時折柔らかく微笑みながら聞いてくれた。
 こうやって話していると、落ち着いた。ずっと話しているのは私なのに、喉も渇かない。
 彼女が作り出す沈黙は沈黙ではなくて、それは静寂なのだ。だから私の心は平穏でいられる。
 

 話しているうちに森のざわめきが強くなってきた。風が強くなり、雲が空で流れる。
 完全に月を隠すことはないけれど、それでも暗さは増していた。
 彼女はそういうときに、じっと空を見上げる。少しむっとした顔で、空を見上げた。
 可愛らしい顔だった。小さな女の子がするように、口を尖らせて空を見上げる彼女の横顔は、美しくて可愛かった。
 次第に雲が流れ、またしても完璧に月が顔を出した。
 そうすると尖らせた唇は元に戻り、私の方を振り向く。
「困ったなぁ」と言っているように見える彼女の眦に私はどきっとした。
 時間を確認すると、前回と同じようにもう四時を回っていた。
 雲から逃れた月も、低い位置にいる。
 私は自ら立ち上がり、彼女のもとを去る。
 少し歩いて振り向くと、彼女はまたしても私を見て、微笑みながら手を振ってくれた。
 
 またしても私は丘を登っていた。満月の日だったから。
 ただ、いつもと違うのは天気だった。空は完全に雲に支配されていて、歩いている丘の道はいつもにも増して暗く、それでいて長く感じられた。
 前回歩いたときよりも気温は高くなっていて、何もしていなければ涼しいけれど歩いていたら汗をかく。じっとりとした汗で髪の毛がおでこに張り付いているのが分かる。
 それでも彼女を求めて私は歩いていた。もしかして、という予感が頭をよぎるけれど、それを無視するように私はただ歩いていた。
 そして頂上に着き、予感が確信に変わる。
 彼女は居なかった。

 どうして居なかったのだろう。私の頭の中は一か月間そのことばかり考えていた。
 好きな男も気にならず、付き合っている子の連絡を返すのもおざなりになった。私は気付いたらあの彼女のことばかり考えていた。
 やはり月が出ていないと、それも満月でないと現れないのだろうか、とも考えたけれど、それはあまりにも物語性がありすぎて現実味が無かった。
 もう現れないのだろうか。もう私の話を聞きながら微笑んでくれる彼女は居ないのだろうか。

「先輩、今日夜いいですか?」
 付き合っているあの子から連絡が来た。
 私たちは互いのことを「先輩」、「後輩」と呼び合っていた。中学の頃の部活の名残、というのもあるけれど、単純に名前で呼び合うのが恥ずかしいだけだった。
 ただ行為の最中は互いに名前を呼ぶ。
「どうした? 後輩」
「いえ、最近会えていないので」
 決してあの子は「寂しい」なんてことは言わない。そういうところも愛おしくはあった。
 けれど、私の頭はいま丘の上の彼女に支配されていて、そんな中あの子に会うのは憚られるような気がした。
 どうせ会えば身体を重ねることになるのだ。そんな中、あの子の求める私でいられる自信が無かった。
 ただ、求められているということに応えられない私でいるのも嫌で、私はこう返す。
「いいよ。おいで」と。

 駅で待ち合わせをしたあの子は、私服だった。あの子と私は制服で会うことはない。互いが互いに家に親がずっといて、お互い親が不干渉だという共通があった。
 だから私たちは会う時、普通のデート以外はホテルで過ごす。いわゆるラブホテルというもので、そんな頻度は高く無いけれどよく利用していた。
 そういう明確な目的がなくとも、お風呂は広いしベッドは大きいし、テレビではある程度なんでも見ることができて、アメニティも充実していて、シャンプーもコンディショナーも好きなものを選べて、言うことは何もなかった。
 適当に部屋番号を選んで私たちは入室する。
 女同士だからなのか、受付の人に何も言われることはなくて、スムーズだった。
 最初に二人でお風呂に入るのが定番だったけれど、どうもあの子の口数が少なかった。
 遠慮がちに私を見ては、眼が合いそうになると伏せる。
 そういうことは今までなく、むしろ最初は私が目をそらす側だったのに、何かが変わった。
 それでも一緒にお風呂には入るし、浴室から出れば互いにベッドに横たわって、じゃれあうし。そういう部分は大きく変わってはいなかった。

「何かあった?」
 後ろから抱きしめて耳元でそうささやくと、突然あの子は泣きだした。
 理由は何も言わず、ただ泣き出したあの子を私の方へ向かせ、頭を抱きかかえる。
 こういうことばかりが上手くなっていく、という感覚と、本当に心配している感覚が頭の中に共存していて、自分が嫌になる。
 だったら会わなければ良かった。
 そんな想いも頭をよぎる。
 そして浮かぶのは、丘の上の彼女。
 私を愛してくれている子を抱きしめながら、頭に浮かぶのは丘の上の彼女だった。
 不思議だった。そういうときにあの、同じクラスで、教室の片隅で本を読んでいる、声の低い彼でもいいはずなのに、頭に浮かぶのは丘の上の彼女なのだ。
 前回会えなかったことが尾を引いているのかもしれない。私は彼女に魅了されていた。
 それはもう、間違いないことだった。

 そして六月も七月も八月も過ぎた。
 私はあの子と別れ、今は一人だった。
 好きかもしれない男のことは何も考えなくなり、私はただただ満月の夜に丘の上を目指すことを繰り返していた。
 何故か満月の日に雲がかかり、少しも月は顔を出さなかった。それでもかすかな可能性にかけ、私は丘を登った。
 真夏に、汗だくになりながら登っても彼女は居なかった。
 
 月日が経つにつれて彼女が頭の中に棲みつく割合が増えていたような気がした。
 あの指先、優しい眼、息遣い、白いワンピース、腰までの長い髪、透き通る肌、小さく振る手、しなやかな身体。その全てに出会いたかった。
 だから、九月の今日も私は丘を歩いている。
 
 夏は終わったとはいえ、やはり歩いているとじんわりと汗をかく。背中に張り付くキャミソールを不快に感じながら、歩を進めていくと、頂上が見えた。
 頂上は小さな公園になっていて、そこには小さくて滑らかな噴水がある。その手前は少し広い舞台のようになっていた。
 
 その奥では堂々と、それでいて優しく、月が「こっちにおいで」と私に語りかけている。


儚さ⑬

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