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404の言葉たちをもとめて——吟味するということ

言葉はうしなわれていくものだ。沸き立ってあああああと頭の中でつらつら並べ立ててこれは名案あとできちんと纏めようと思ってカップラーメンを啜った途端にあれなんだっけとうしなわれていく。風呂場や枕元にメモ帳を置いておくという作家やミュージシャンの話を誰でも一度は聞いたことがあるだろう。

わたしも最近はTwitterのDMをメモ帳代わりにするようになった。深夜うとうととこれは書き残さなければならないという言葉の破片が時間と共に一方通行の吹き出しのかたちで残っている。何か、これを鮮明な言葉で残しておかなければならないという本能だ。うしなわれたコード404の言葉たちの儚さを理性もよく知っている。あの時のあの感情が溢れてやまないあの瞬間にしか書けない言葉と文章が、確かにあったんだ。

村上春樹『一人称単数』の最初の短編『石のまくらに』。二年前の大学生の頃、まだ単行本に収録される前のものを読んでいた。当時分析と考察のときに読んでけれど、今その能力が衰えた状態で読んでみると、当時とは別の箇所を繰り返して読みたくなった。(とはいえ、当時どこに注目して読んでいたかは、もう随分と忘れてしまったけれど。)

概要をとても簡単に説明しておくと、語り手「僕」が大学二年生の頃に一夜を共にした女性の短歌についての話だ。恐らく、自分を都合よく呼び出す不倫相手に片恋をしてしまい、「僕」とのセックスでもその男の名前を読んでもいいかと尋ねてくる女性。彼女の趣味は、短歌を読むことだった。それも、「男女の愛と、そして人の死に関するものだった。まるで愛と死が、互いとの分離・分断を断固として拒むものたちであることを示すかのように。」

ずいぶん不思議なことだが(あるいはさして不思議なことではないのかもしれないけれど)瞬く間に人は置いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。目をとじ、しばらくしてもう一度目を開けたとき、多くのものが既に消え去っていることがわかる。夜半の強い風に吹かれて、それらは——決まった名前を持つものも持たないものも——痕跡ひとつ残さずどこかに吹き飛ばされてしまったのだ。あとに残されているものはささやかな記憶だけだ。いや、記憶だってそれほどあてになるものではない。僕らの身にそのとき本当に何が起こったのか、そんなことが誰に明確に断言できよう?
(村上春樹『石のまくらに』——村上春樹『一人称単数』p22-23)

喪失。わたしのあのコード404の言葉たちに対する悔恨も、喪失だ。あの時本当にあったこと——胸の内にあった、あの、あの感情を永久に保存するために、あの瞬間の言葉が必要だった。でもそれはどこにも記されることなくうしなわれてしまった。死んでしまった。

たとえば青春の話なら多くの人にわかってもらえるだろうか? 青春時代のあの文集と同じ文体、同じ表現、同じ構成の文章があなたに書けるというのなら(文章ではなく音楽のほうが得意だったというのなら音楽でもいい。絵画でもいい。とにかく、あなたがあの時自らの骨を砕き血を塗った、あなたにとっての、それ、であればいい。)そのすべをどうか教えて欲しい。コード404の言葉を取り戻すために。うしなわれたものは尊い。あれを再度掌に収めたい。でも語り手の「僕」は下記のように続ける。

それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の風をうまく先に送りやってしまう。そしてやがて夜があけ、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公正な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけだしてあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなければならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。
(村上春樹『石のまくらに』——村上春樹『一人称単数』p23)

繰り返し目で辿り、咀嚼した。——わたしがあの時、あの時の、と思うのは、それこそ心内が嵐のように吹き荒ぶ瞬間だ。大抵その時わたしは泣いているか、眠りに落ちかけているか、何かに集中しているか、無意識の底に接続するあの、あの瞬間。あの瞬間、言葉は風になり土埃になり丸裸のわたしを叩きつけてくる。わたしが捉えようとしている言葉はその風であり土埃であり、わたしは暴風雨の中泥沼に足を取られながら掬おうとしているのだ。だってあの瞬間でないと、書けない言葉がある。それでうしなわれていった言葉を何度も見てきた。

だが語り手は、「生き延びた言葉たち」を丹念に選ぶことに注力するのだ。その瞬間の熱量を泣きながら荒々しく書き乱すのではなく、辛抱強く残った正直な言葉を、吟味して、選び取る。代償として自らの命を差し出しながら。

同じことを、別の本でも読んだ。短歌の本。木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』でだ。

いまこの瞬間を書く必要はない。あなたが書くべきはあなたが見ているその月ではなく、あなたがいつか見たあの月だ。いまこの瞬間、あなたが見ている月について言葉はいらない。どんな言葉よりもその月のほうがうつくしいからだ。見とれていい。黙っていればいい。無理に言葉にする必要はなく、目に焼き付ければそれでいい。それが思い出になったとき、目を閉じてもう一度その記憶のなかの月をよく見てほしい。おそらく何かが欠けていて、何かが不鮮明になっているはずだ。そこにこそ詩の入り込む余地がある。
(木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』p50)

短歌こそ、言葉を選び取ることの最上位と言っても過言ではない。フレーズを探し、類語を探し、語順を変え、削り、音を意識する。このことを「吟味」というのだと、昔国語の先生に教わった。今、今、あの時、あの瞬間、に拘らなくてもいい。嵐の間無理に土煙に巻かれて倒れる必要もない。言葉はうしなわれていくものだ。だけれどもその嵐のあと、散り散りになった花の種が芽吹くように残った言葉、反対に儚くも欠けてしまったもの、存在と喪失の両方に目を向けること。そしてその存在と喪失を丹念に、命がけで、選び取ること。

吟味。

わたしが今二人の現代作家から受け取りたいのは、そういうメッセージなのだろう。


短歌教室の影響を早速受けて、いくつか処女作の短歌を作った。心象風景としてすぐに浮かび書きやすかったものがTRPGの物語の一幕だったので、同じ物語を共有していない人に対しては意味のわからないものかもしれないけれど。吟味の結果として、ひとつその中でも気に入ったものを残し、本日の言葉は終了とする。


金の月が純闇の胸にひらかれた その肖像画を切り取る虹彩


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