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男になる話、女である話

「元祖ロリコン映画」ではない

今となっては、往年の名画とも言うべき「シベールの日曜日」というフランス映画がありました。1962年ヴェネツィア国際映画祭にて審査員特別賞、翌1963年にはアカデミー外国語映画賞を受賞していますので、当時は相当な話題を呼んだはずです。
今でもここニッポンでは、この映画を「元祖ロリコン物」と揶揄する人がおられますが、そのような「狭い領域」だけに収まるレベルの作品ではない、21世紀の今でも観るに値すると、私は思います。

あらすじ

インドシナ戦争での戦闘中に心の病に罹り記憶喪失になったフランス空軍パイロットと、親から見捨てられた寄宿学校生の少女との出会いと別れを描いています。二人は、日曜日ごとに公園で、まるで恋人、姉弟、あるいは父娘のように接しながらほんのひと時の幸せな時間を過ごしますが、やがて周囲から、不審人物と未成年女子が一緒にいると怪しまれ、最後には悲劇が起こる、という物語です。

注目すべきは、幽玄な美しさの映像、冷ややかで無機質な音響

主人公たちが散歩する湖畔の反映をとらえた白黒の映像が、孤独な二人の心象風景のように美しく輝いていました。
監督のセルジュ・ブールギニョン( 当時34才 )は日本の墨絵をイメージしたとのこと。樹木を反映して揺れる水面の幻想的な美しさの中で、湖畔で愉しく戯れる二人の姿を遠景でカメラが捉えています。撮影監督は名匠アンリ・ドカエ( 当時47才 )。

音楽担当は「アラビアのロレンス」などアカデミー賞3度受賞のモーリス・ジャール( 当時38才 )で、時おり自然の物音や弦楽器の重く響く音が入るだけで装飾音が無いために作品世界の濃密さが増し、氷のような肌触りの映像が眼前に静かに広がる印象です。

すべてが神秘と夢幻のヴェールにまとわれて幽玄な美に満ち煌めく「二人の秘密の戯れ」が静かに時を刻んでいる、・・・そんなイメージが拡がる詩的な映像空間でした。

なお、監督によれば、少女役パトリシア・ゴッジはほとんど演技指導する必要がなく、自然にこの役を演じたとのことです。

補足:インドシナ戦争とは?

第二次世界大戦中は日本が占領していたベトナムという国、敗戦後は、北部にはベトナム民主共和国が建国されましたが、南部は再びフランスの植民地となり、1946年には、南北統一を目指して戦争が始まります。その際、北ベトナムには社会主義国のソ連と共産主義国の中国が軍事支援、フランス側には資本主義国アメリカが支援するという東西の冷戦構造となり、ベトナムという場所を借りた「代理戦争」と化した、これが、約半世紀にわたって続いた「インドシナ戦争」の真相であると思われます。

「シベール・・」の監督やスタッフたちの多くは、まだ若い世代に属する年齢だったので、その時代の「空気」や「流行」に敏感に反応しつつ、反抗心は旺盛で、進取の気性にも富んでいたと予想されます。


傷ついた魂たちの触れ合い ~ 性愛感情を超えて

ところで、戦争による心の病をかかえた男ピエールと同居して献身的に支えて愛そうとする女性マドレーヌがいるのですが、その愛し方が時として、彼からすれば、保護者か母親のように感じられたのでしょうか、・・・出会った無邪気な少女フランソワーズ(本名はシベールであることが映画ラストに明かされる)との語らいに新鮮な驚きと喜びを感じ、自分は病から立ち直れるのでは、と彼は明るい希望を持ち始めるのです。

一方の少女も、親から捨てられて、さびしい思いをしていたので、彼との交流を通して、彼を「親代わり」にしたり、あるいは自らが「彼の親」になることで、心の傷を癒していたのではないでしょうか、・・・二人の間にあったのは、傷ついた魂同士の触れ合いであり、心の交流だったのであり、決して性愛的感情や欲望ではなかった、というのが私の感想です。

この点に関し、以下に、引用して補足します;

補足:「母性」と「性生活」について

公開当時の劇場パンフレットより、田中澄江・志賀信夫お二人の記事から一部を要約引用;

ピエールにとって、シベールといる時は童心の世界で無邪気に戯れることができるが、恋人マドレーヌは、献身的な愛を捧げながらも保護者的な立場になりがちである。このふたりの女性に共通するのは「母性」であるが、決定的に違うのは、「性生活」である。「性生活」のない二人が、その純真無垢な魂のまま永遠の愛を果たすには、「死」をもって遂げるしかない・・・。

私にとってこの指摘は、考え及ぶはずもなかった「盲点」でした。


不在の自分探し ~ 永遠の女性像を求める男たち

さて、そんな少女シベールと出会う前のピエールは、何かを求めながらも、どこか虚ろで、当てもなく彷徨い続けていたような印象です。いわば、「不在の自分探し」をしているようで、時おりよみがえる戦場の記憶に悩まされては自分をさらに見失ってしまいます。その姿はまるで、求めても得られぬ「永遠の女性像(おそらく理想の母親像)」を勝手に追い続ける男たちの愚かしくも切ない姿とあまり変わらないのではと思えてしまいます。

この「永遠に女性的なるもの」を、心の奥で「母なき少年」のごとく求めさすらうのが「男なるもの」の常なのではないかな、と自分は感じます。そして、その寂寞とした男の漂流感と少年性を男優H・クリューガーは見事に醸し出していました。


最後に

私は何となく思うことがあります・・・

この世の政治体制や経済法則から、日常の交通手段、建物、電気設備などほとんどすべては、男たちが中心になって長い歴史を通してせっせと築きあげてきました。一方でそのようなシステムは、男たちの起こす戦争や人知を超えた天災により一夜で崩壊もしてきました。

では、そんな歴史の表舞台で、女性は一体どうしていたのでしょう?

ここで論理的な見解を述べることはできませんが、女性というものは、歴史の表舞台にその名が刻まれていなくても、舞台裏では陰の主役あるいは演出家としてしっかり自らの役割を果たしていたと思うのです。場合によっては、女性の一言で男性の虚栄と慢心で築いたものがあっという間に崩れることもあったはずです。

ピエールが本来の「男」に戻ろうと苦悩したように、男性というものは一般に、無理して「社会的に男というもの」になろうと努力する傾向があると私は思います。

一方、女性は一般に、ただひたすら、ありのままの自分でありたい、つまり、本来の「女性なるもの」でありたいと願っているように思えます。



以上が、「シベールの日曜日」から連想した、私の思う「男になる話、女である話」なのでした・・。

created by Rlusky E      2014


追記:
映画「シベールの日曜日」に、「女児に対する人権問題」に抵触する要素を私は見出すことはできません。また、今日的問題である「ジェンダーや性的マイノリティー」との関連については、私はまだ探求できていません。

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