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いじめられる側にも原因が?

恋人と話をしていた時、テレビのニュースを見てふとこんな話題が挙がった。「いじめられる側にも原因はあるのか」と。
僕は「もちろんいじめられる側に原因は無い」と思っていたし、「いじめる対象なんて誰でもよかったんだろう」と思っていた。しかし恋人は「いじめらる側にも原因はある。」と言っていたので疑問に思っていたら、「俺は弱かったからいじめられた。だから強くなっていじめられなくなった。」と。
なるほどそんな考えがあるのか。と同時に強くなれたからそう思えるんだなぁと感じた。

でもたしかにそれは経験に基づいた考え方だし、もちろん否定する余地は無い。
結果、「いじめられる側には何かしらの原因はあるが、それがいじめていい理由にはならない」という考えに至った。
一件いじめを正当化してしまう意見に思えてしまうが、どんな理由があれどいじめられて仕方ないなんてなるわけがない。いじめる側は加害者、いじめられる側は被害者。その事実は決して揺るがない。

いじめの傷跡

いじめた側は「そんなこともあったなぁ」くらいかもしれないが、いじめられた側がその事実を忘れることはない。
かく言う僕も中学時代に部活動でいじめを受けていた。それも後輩にだ。今思うと情けない話だが、力でも部活の実力でも敵わなかった。
そして顧問の先生も見て見ぬふり、外部コーチに暴力を振るわれたこともあった。当時はすべて「自分が悪い」と思い込んでいたが、今考えると意味がわからない。悪いことしてないのに。
話は変わるがオリンピック関係者が過去にいじめをしていたことが判明し、そのことで叩かれていたことがあった。「過去の話だし根に持ちすぎ」みたいな意見もあったが、僕はいじめられた側に共感した。
自分をいじめておいて自分より幸せになっているのが許せないのだろう。その気持ちはすごくわかる。
ただ、直接危害を加えようとは思わない。「なるべく不幸な人生を歩んでくれますように」くらい。
そんなことを考えながら僕をいじめた後輩も今どうしてるかとか調べたこともあったけど、僕がそれで幸せになれるわけでもないので探るのもやめた。

いじめの戦い方

最初に記したように、恋人は自分自身が強くなることで文字通りいじめと戦った。僕はどうしたかと言うと、ひたすら耐えたのである。

母もなんとなく気付いていたのだろう、中学生の多感な時期だし僕を刺激しないようにと必要以上に口出しはしなかったが、卒業してから「よく3年間辞めずに続けたね」と言ってくれた。その言葉が嬉しくて今でも覚えている。
今思い出しても「あの時よくやめなかったな」と自分でも思うし、今の自分がその状況に立っていたら絶対にやめていたと思う。あの強さはどこから来ていたのかは未だに疑問に残る。
こんな話をするとよくある「継続は美徳」みたいな理論が出てくる。個人的には嫌いだが、全否定するつもりはない。
僕はもちろん継続することは大変なことだが、やめる決断にも相当な勇気が必要だと思っており、どちらも尊敬すべき行動だと考えている。どちらも自分自身の強い意志で「決断」しているのに変わりはない。

最後に、僕はいじめを耐えたことで自信を手に入れた。今では考えられないような意志の強さを当時は持っていた。今相手がどうなってるとか関係無く、その時戦ったから今の自分があると考えて強く生きていきたい。

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