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村上春樹 『スプートニクの恋人』を読んで

村上春樹さんの長編小説『スプートニクの恋人』を読み終えた。
あちらの世界とこちらの世界の境界線がわからなくなり、目の前の世界が歪んで足元がすくみそうになる。本を閉じたはずなのに、私の意識はまだ小説のなかに取り残されている。

冒頭は主人公である22歳の女性すみれが「突き進む竜巻のような激しい恋」に落ちた瞬間の描写から始まり、その表現は私の心をかっさらっていった。一瞬でこの物語にのめり込むには十分すぎるほどの印象的な書き出しだった。

この本の世界にいつまでも浸っていたい、と思える作品に出会えることは稀だ。そういう作品は物語の面白さはもちろんのこと、読み進めることで物語を生み出した作者自身による世界を捉える視点が浮かび上がる。そしてそれに共鳴し、共鳴するだけにとどまらず新しい景色がひらけて私の心を震わせる。文字を追っているだけなのに目の前には色鮮やかに物語のなかの風景が見えてきて音も聴こえてきて、肌で風を感じたり、口の中に唾液が溜まってきたり、その場所の匂いまで感じられる。魂が肉体的な身体から抜け出て本の世界へと入り込んでしまう。魔法のようだ。こちらの世界にそう簡単には戻ってこられなくなるので、しばしば日常生活に支障をきたしてしまうことさえある。夢の中にいるみたいで、魂がふわふわと浮遊する。それでもその世界になるべく長く浸っていたいから、私は一語一語心の奥の方まで届くようにじっくりと時間をかけて読み進める。はやる気持ちを抑えながら、たまにページを閉じて深呼吸をする。私が意識的に文字を追わない限りその風景は変わらずにそこに在り続けることも不思議に思えてくる。本であるから当たり前のことなのだけれど、その事実に私は何度でも驚く。物語はいつだって完璧な形で存在していて最後のページを読み終えれば必ずなにかしらの終わりを迎えるということも、読んでいるときはにわかに信じがたく、それは救いにもなるけれど同時にある種の絶望でもあるのだと思う。

そんなこんなでとりとめもなく綴っているあいだに、少しずつ私の魂があちらの世界からこちらの世界の生身の身体に戻ってきて指の先に熱を感じる。本の世界から抜け出すのは寂しいけれど、私はこちらの世界で現実を生きていかなければならないのでこれで良いのだ。あちらの世界へ戻りたいと願えば、いつだって本を開けばいいのだから。


さてここからは私自身の読書備忘録として、『スプートニクの恋人』を読んで心に刻まれた箇所を記しておくことにする。

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐに突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。

p.7

「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんなに立派な門を作っても、それだけで生きた小説にはならない。物語というのはある意味ではこの世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる。」

p.26

「(中略)うまいとか下手とか、器用だとか器用じゃないとか、そんなのはたいして重要じゃないのよ。注意深くなる── それがいちばん大事なことよ。心を落ちつけて、いろんなものごとに注意深く耳を澄ませること」

p.63

「最初からああだこうだとものごとを決めつけずに、状況に応じて素直に耳を澄ませること、心と頭をいつでもオープンにしておくこと」

p.65

考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる── それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない

p.201

「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」

p.247

また戻りたいと願う物語が部屋の目につく場所に存在してくれるということは、なんと心強いことか。あちらの世界があるからこそ、私はこちらの世界を安心して生きていける。

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