牛乳嫌いのバレンタイン | 短編小説
まり子が小学五年生になった始業式の朝。
教室の窓際でぼんやりと外を眺めていたまり子は、樹齢百年以上はあるという校庭の大きな欅の木の下に、見知らぬ男の子が立っているのに気づいた。
その男の子は、まり子のクラスに転校してきた松本圭太だった。
東京から来た圭太は、まり子のような片田舎の小学生からは、ちょっと大人っぽく見えた。
「…ええと、松本くんの席は…あ、広瀬さんの後ろです」
担任の五十嵐先生に自分の名前を言われて、まり子はドキリとした。
自己紹介を終えた圭太が、ゆっくりと近づいてきて、まり子の後ろの席に静かに座った。まり子はちょっと緊張して、背筋を伸ばした。
*****
始業式の翌日、五年生になって初めての給食の時間。
まり子は、圭太と給食を一緒に食べる四人一組の「給食班」が同じだった。
その日、食器をお盆の上に並べたまり子は、ちょっと憂鬱な気持ちになった。給食で出される牛乳が嫌いなのだ。
小柄なまり子は、いつも周りの大人たちから「牛乳を飲みなさい」と言われていたが、小さい頃からあのまとわりつくような牛乳の味が好きになれず、匂いも苦手だった。それなのに、小学校の給食には必ず牛乳が出る。
友達はみんな、「おいしいよ」と言ってゴクゴク飲んでいたが、まり子にはマズイとしか思えない。
もし運悪く、給食を残すことを許さない先生が担任になったりしたら大変だ。牛乳を飲み干すまで、午後の授業が始まっても、自分だけ給食を片付けることができないからだ。
そして、どうやら今年の担任の五十嵐先生も、許してくれないタイプのようだった。
まり子は目の前の牛乳瓶を見て、ため息をついた。おかずもご飯も食べ終え、残すは牛乳だけだった。
いよいよ諦めて牛乳瓶に手を伸ばそうとしたとき、転校生の松本圭太が、まり子に話しかけた。
「牛乳、嫌いなの?」
「え?う、うん」
まり子は急に圭太に話しかけられたので、声が詰まってしまった。
「俺、飲もうか?」
「え、でも・・・」
「大丈夫だよ。先生、他の班の人と喋ってて気づいてないし」
圭太はまり子の牛乳瓶をつかむと、一気に飲み干してしまった。
まり子はあまりの素早さに呆気にとられ、圭太にお礼を言うのも忘れてしまっていた。
翌日も、翌々日も、圭太はまり子の牛乳を飲んでくれた。
そして、それはいつの間にかふたりの習慣になり、席替えで給食班が変わっても、圭太はまり子の席まで牛乳をこっそり取りに来てくれた。
*****
転勤が多い父親の仕事の都合で、圭太は過去にも何回か転校をしていた。
そのせいなのか、圭太は人見知りもせず、すぐにクラスメートと打ち解けていた。
数ヶ月後には、まり子も初めて話したときのような緊張はなくなり、他のクラスメートと同じように、「圭太」と呼び捨てにするようになっていた。
冬休みが終わり、三学期が始まって二月になると、女子たちはバレンタインの話題で盛りあがり始めた。みんな、なんだかソワソワしている。
まり子は今まで、バレンタインには女子にあげるチョコレート、いわゆる「友チョコ」しかあげたことがなかった。
でも、今年は、いつも牛乳を飲んでくれるお礼に、圭太にチョコをあげようと計画していた。
バレンタインまであと少し。
まり子は近くの書店に何回か通い、チョコレートのレシピ本や雑誌をチェックした。
そして、自分でも作れそうな、でも、男子にあげるのにちょうど良さそうなチョコレートの作り方が載っている本を1冊、母親に頼んで買ってもらった。
*****
「よし、これでオッケー!」
バレンタインデー前日の夜。
まり子は、「誰にあげるの〜?」とニヤニヤする母親をかわしながら、レシピとにらめっこをして、圭太にあげるチョコを完成させた。
そして、チョコにラッピングをして仕上げると、部屋に籠もり、
「これ、牛乳のお礼!・・・うーん、なんか違うなあ」
「これ、良かったら食べて!」
と、圭太にチョコを渡すイメージトレーニングを繰り返した。
翌日、ラッピングしたチョコを隠し持って登校したまり子は、かなり緊張していた。牛乳のお礼とは言え、男子にチョコをあげるのは初めてなのだ。
チョコ、いつ渡そう?
タイミング逃しちゃったらどうしよう?!
まり子の心臓は朝からドキドキしっぱなしだった。
しかし、その日、圭太は授業が始まる時間になっても学校に現れなかった。担任の五十嵐先生が教室に入ってくると、騒がしかった教室は静まった。
「えー、みなさん。松本圭太くんですが、急にお父さんの転勤が決まり、転校することになりました。皆さんにお別れの挨拶ができなかったことを、残念がっていましたよ。」
「え!?転校?まじで?」
「なんで?」
「すごい急だね…」
クラスの中がザワザワとし始めた。
まり子は、先生の話をすぐには飲み込めなかった。
「みなさん、静かに!では、一時間目を始めます!」
先生はそう言うと、授業を始めてしまった。
*****
その日の給食の時間、まり子は「お腹が痛い」と嘘を言って、牛乳を飲まなかった。
いつもなら圭太が代わりに飲んでくれるのに。
まり子は突然のことで頭の整理ができなかった。
「早く家に帰りたい」
まり子はつぶやいた。しかし、そういう日に限って、掃除当番で最後まで教室にいなければならなかった。
「あーあ。チョコ、無駄になっちゃったな」
掃除を終えたまり子は、ため息混じりで帰り支度をして、教室を出た。
そして、長い廊下を一人、とぼとぼと歩いた。
しかし、昇降口に向かう階段を降りている途中で、まり子は目を疑った。
階段の踊り場に、圭太が立っていたのだ。
「圭太?!」
まり子は思わず大きな声を出した。
「おう!広瀬!」
「ここで何してるの?!あ、じゃなくて…転校するって本当?!」
「あー、そう。今日、引っ越し。うちの親、転勤多くてさ。もう慣れたけど」
親の転勤とは縁遠いまり子にとって「転校」なんて一大事だ。それなのに、圭太はなんて事なさそうだった。
「実はさ、引っ越す前に、もう一回、これを見ておこうって思ってさ」
圭太は、踊り場の壁に貼られた一枚の絵を指差した。
それは、去年の五月に行われた校内の絵画コンクールで、まり子が「優秀賞」をとった、あの校庭の欅の木の水彩画だった。
「俺、この絵、すげー好きなんだ。去年、初めてこの学校に転校してきた日、校庭の、このでっかい木を見て、なんか勇気が出たっていうか…」
圭太は、ちょっと照れくさそうに言った。
あの始業式の朝、この欅の木の下に立っていた圭太の姿を、まり子は思い出した。
「うん、この木、私も好き」
「あのさ、広瀬、お願いがあるんだけど」
「え、何?」
「この絵、もらってもいい?」
「え?」
まり子は一瞬、勝手なことをしたら先生に怒られるかもと思ったが、もう、どうにでもなれ!という気持ちになった。
「うん!いいよ、持って行って!」
「やったあ!サンキュー!」
圭太は、画鋲を抜いて絵を壁から外すと、丁寧にくるくると丸めた。そして、
「広瀬さ、明日から牛乳ちゃんと飲めよ。背、伸びねーぞ」
と、ちょっと意地悪そうに笑って言うと、「じゃあな!」と片手を挙げ、階段を一段飛ばしで降りて行ってしまった。
*****
次の日の給食の時間、まり子は牛乳を手に取った。
そして、「いち、にっ、さんっ」と数えると、一気に飲み干した。
久しぶりに飲んだ牛乳は、美味しくはなかったけど、マズイと言うほどではないなと思った。
空になった牛乳瓶を机の上に置いて、まり子は窓の外を見た。
校庭の欅の木の枝が、まだ冷たい早春の風に揺れていた。
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