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小説「まなざし」

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交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ…
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#聴覚過敏

まなざし(26) 出発の日

まなざし(26) 出発の日

彼女と約束をした週末は、快晴とまではいかないけれど、雲の隙間から暖かな光が差す心地良い朝を迎えた。

うだるような8月の暑さをなんとか乗り切り9月も半ばまで過ぎたが、それでもやはりまだ日によって真夏と同じくらい汗をかく日がある。とりわけ仕事で歩いて営業活動をしなければならない日はなおさらだ。ひどい時は、得意先の玄関まで着いたところで10分間汗を乾かす時間を置かないと人前に出られないことがあるほどに

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まなざし(25) 4.7cm

まなざし(25) 4.7cm

「お客様、誕生日プレゼントか何かをお探しですか?」

ジュエリーショップには一度だけ足を運んだことがある。それこそ、瞳美の22歳の誕生日にはそこそこの値段のするネックレスをプレゼントした。
その時も、ショーケースに並ぶキラキラのアクセサリーを見て、たじろいだ記憶がある。知識ゼロの自分が彼女が満足してくれるようなプレゼントを選べるかどうか分からず、緊張していた。緊張しすぎて、何度も店に入っては出て、

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まなざし(22) 伝えるということ

まなざし(22) 伝えるということ

7月11日。

「瞳美、久しぶり!」

大きく手を振って嬉しそうに駆け寄ってきてくれた宮本さんは、編集サークル『陽だまり』の友達だ。入院中サークルに顔を出せていなかった私は、退院した翌日に皆に会いに行った。メンバーが集まっての活動自体、週に一回か二回しかないため、ブランクのある期間はそれほど長くない。自分がいなかった期間を愁うよりも、自分の身体が普通と変わってしまったことに関して、皆にどう説明すれ

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まなざし(21) 変わらないもの

まなざし(21) 変わらないもの

7月10日。

「退院おめでとう」

花束と共に差し出されたメッセージカードの文字を、指でなぞる。同時に、これから普通の日常に戻って生活をするという実感がぞっと湧き上がってきた。普通じゃない、今の自分の身体でどこまで“普通”の毎日を送れるのか、正直不安だった。
20歳の誕生日を意識不明のまま過ごした私は、いつの間にか大人になってしまった自分が恨めしかった。
大人って、弱音を吐けない。
一番弱音を吐

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まなざし(20) 不安のなかで

まなざし(20) 不安のなかで

いーち、にー、さん

心の中で、ひたすら数えていた。
包帯が取れて見かけ上は普通と変わらない耳を塞ぎ、目を閉じて祈った。

いーち、にー、さん

3つ数えて耳から手を離して目を開けたとき、音が聞こえるようになっていますようにと。
開け放った窓の外から聞こえる鳥のさえずりや、不快な救急車のサイレン。病室に近づいてくる医者の足音。
この際何でも良かった。かつてあれほど過敏に様々な音に反応していた私の耳

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まなざし(19) 私の声

まなざし(19) 私の声

人が、轢かれたぞっ!

目が醒める前に、頭の中で、鋭い台詞が何度も再生されていた。
それが夢の中の出来事なんだろうと、なんとなく思っていた。にしては、叫び声を上げる人の声が、ぐわんぐわんと頭の奥で反響しているのがとてもリアルに感じる。いやに物騒な夢じゃないか。稀に友達が怪我をしたり死んだりする夢を見ることがあるけれど、あれは大抵が吉夢らしいということを聞いたことがある。だったらこれも、相当な吉夢な

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まなざし(18) 衝撃

まなざし(18) 衝撃

6月5日金曜日。
あっという間に金曜日が来た週ほど、充実した一週間を送れたと実感する時はない。でもそんな瞬間はいつもいつも訪れるわけではないため、今日みたいに一週間の終わりに「もう」と気づいてしまうような日は、ちょっと得した気分だ。

四限で終わる金曜日。サラリーマンになったら「華金」なんて煌びやかな言葉をやっぱり口にするのだろうか。 
明日は真名人くんが誕生日のデートに誘ってくれた。行き先は私の

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まなざし(17) 晴れみたい

まなざし(17) 晴れみたい

ポツリ、ポツリ。

雨音を聞いて、空を見上げる。曇天模様。もう少しすれば本格的に雨が降ってきそうだ。大きな傘を持ってきたのは正解だった。朝、家を出る前に天気予報を見るのは欠かせない。それは、あの日小学校の教室で雨音に耳を澄ませ、時にそれを煩わしいと感じていた自分の、昔からの癖だった。

6月1日、月曜日。
もうすぐ本格的な梅雨がやってくる。
大学二年生になった私は、一人暮らしにもすっかり慣れ、変わ

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まなざし(16) 瞳

まなざし(16) 瞳

「早坂君……」

垣内さんが去っていったあと、潤んだ瞳で見つめてくる雨宮さんを、俺はその場で抱きすくめたい衝動に駆られるのをぐっと堪えた。

「大丈夫、だったか」

もっと、上手に彼女のことを気遣えたら良いのに、先ほどまで煮えたぎっていた垣内さんへの嫉妬と怒りを落ち着けるのにちょっとばかり時間がかかったせいで、ぎこちない言葉が漏れ出た。

「大丈夫……。でも、ちょっとびっくりしちゃって」

こんな

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まなざし(15) 嫉妬

まなざし(15) 嫉妬

先輩と彼女は、俺の目の前で飲み会の席を立った。
彼女が突然、飲み会中に辛そうな顔をして耳を抑えたからだ。
俺が何度呼びかけても、彼女には届かなかった。

しかし、彼女は隣にいた先輩の声をちゃんと聞いていた。
その、心配そうな表情から真剣に彼女を救い出そうとするまなざしまで見ていたのだ。
どういうわけかそれは、垣内先輩が単に彼女の隣に座っていたから、というわけではない気がして、どこからともなく湧いて

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まなざし(14) 何もできない

まなざし(14) 何もできない

「雨宮さん」

俺は何度も、正面の席に座っている彼女に名前で呼びかけた。

雨宮さん。
雨宮さん。
雨宮さん……!

しかし彼女は俺がどんなに呼びかけても、俺の声に気づかない。
変わらず髪の毛の下に両手を潜り込ませて耳を塞いでいた。
周りの連中も、3、4人で話をしていて、その輪の中にいない人の様子などまるで気にも留めていなかった。彼女は一番端の席だったので、反対側の端っこの人にまで彼女の様子が見え

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まなざし(13) 異変

まなざし(13) 異変

「編集サークル?」

彼女がそのサークルの名を口にしたのは、大学一年生の後期授業が始まって一ヶ月が経った、11月1日のことだった。

「うん。『陽だまり』っていうサークルなんだけど、週に一回集まって文章を書いたり、文芸誌や雑誌をつくったりするの」

秋も深まるこの季節に文化的な営みに励みたいと思うのは、人間の性だろうか。
雨宮さんは、色づく街の並木道や、遠くの山を見ながら俺にそう言った。ちょうど、

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