”何もできない私でもいいんだ”って話。
私は小さい頃からずっと”特別な何か”に憧れていたんだと思う。
少年漫画は絶対的ヒーローが主人公でビシバシ敵を倒していくシーンが好きだし、映画でも主人公が少しでも不利な立場になったり、負けそうになったりするとイライラする。
学校で四則計算のスピードを測る小テストが行われると、そろばんを習っていて計算が速い子にとても憧れて、そろばん習っておけばよかったなあとほんのり思う。(私は計算がめちゃくちゃ遅い)
合唱コンクールでピアノを弾ける子がみんなが歌っている中、優雅に伴奏をしているのを見て”みんなと違うことをしている”ことに憧れたし、絶対音感なんてもうお金を払ってでも欲しいと今でも思ってる。
”特別な私”にずっとなりたかった。
みんなにすごいと言われるような”特別な私”に。
”特別な誰か”を横目で見ては、「私だって」「私もいつか」「私の方が」そんな風に思っていたのかもしれないなあ。
一昨年、デザイナーという職業に憧れて、全くの未経験からスクールに通ってWEBデザインの勉強を始めた。
勉強をし始めてから、「常に学ぶ姿勢がないと置いていかれる」「学習意欲の高い人じゃないとデザイナーには向いていない」なんてことをよく耳にしていたし、目に入った。そのくらいの覚悟は必要なんだ…!と意気込んでいたものの、それらはなんだかぼやけていた。
転職活動を始めるとより一層”そういう類の言葉”を目にするようになった。
例えば常に新しい発想・表現を模索してる方とか学習意欲の高い方とかトレンドに敏感な方とかはもう本当にうんざりしちゃうくらいどの求人ページにも書かれていた。
テンプレート化してる部分があることもわかっていたけれど、「デザイナーって本当にずっと学び続けて、頑張り続けなきゃいけないんだ…」って少し嫌になったのを今でも覚えている。
でも、学び続けて、知識を蓄え続けて、沢山の経験を積んで、そしたら気がついたときには立派で有名な”特別なデザイナー”になれてたりするんじゃないか、なんてふんわりと思い描いていた。
現実はそんなに甘くない。
私は中の中の人間だと、自分では思っている。
家は特別裕福ではないけれど、貧乏でもない。小さい頃からたくさんの人や家族が私のことを愛してくれて、毎年夏には家族や両親の友人が集まって海へよく行った。旅行にも沢山連れて行ってもらえて、欲しいものもある程度買ってもらえた。
顔も特別美人ではないけれどブスでもない。髪は綺麗なストレートヘアだし、頭もすごく悪いわけではなくやればそこそこできるくらい。いじめに加担したことも、いじめられたことも、友達と大きな喧嘩をしたことも特になく、分け隔てなくみんなと仲良く、今もちゃんと交流を続けれている友達もそこそこいる。高校生の頃、初めてやり始めたギターもFコードで躓くことなく好きな曲をジャカジャカ弾けたし、大学まで行ってカナダへ短期間の留学に行ったこともある。
それに私は何と言っても運がいい。ここぞという時に誰かが手を差し伸べてくれたり、偶然いい出会いがあったり、無理だと散々言われたことなんかも案外できちゃったりして…
そんな風にのらりくらりと生きてこれた。
そんな私は「人生成るようになる」という言葉に心から共感できる。
デザイナーになってからも私は運がいいなと思えることは多々あった。
苦手だなと感じる人は若干名いるものの上司も嫌味な人はいないし、分からないところはたくさんあったし、上手くいかないことの連続だけれど先輩たちは丁寧に教えてくれて忙しい中でも私のことを気にかけてくれる。コロナが流行し始めて、新米デザイナーの私は休業という形になり、率先力として役に立てず悔しい思いもしたものの、給与面での不安もなかった。
ただやっとデザイナーになれて、「やり続ければ、いつか私も」と勝手に思い描いていた私にとって突然の”休業という空白の期間”は、思っていた以上に大きなものだった。
最初は「せっかくのいい機会だから今までできなかった勉強を沢山して、スキルアップするぞ!」と勉強したいことリストを整理し、読みたかった本を購入し、1日ごとのスケジュールを立てたりと、とても意気込んでいた。ただモチベーションというものはそんなに都合よく何日、何週間、何ヶ月と続くものでもない。
情報収集と自分に言い聞かせてTwitterやInstagramを見ては、隣の芝生は青すぎるなと感じて、みんな毎日忙しくその中でもまた新たなことを学んでいてすごい、副業で多数案件を受注してデザイナーとしてすごいことを成し遂げている…。
それに引き換え、私は毎日何を成し遂げているんだろうか。本を読んでnoteにまとめてそれが何になるんだろう。もっとすごいデザイナーになりたいのに、頭では何をすべきか分かっているのに”努力”が辛く感じてしまう自分がいやで苦しい…。そんな風に上がったり下がったりと、日々色々な感情に振り回される自分がいることに気づいた。
「私はいつか、いつか”特別なデザイナー”になれるはず」
「私だってみんなにすごいと思われるような、そんな人になるんだ」
「でも私には無理かもしれない、もっと努力を。もっと頑張らないと」
「私ももっと努力しないといけないのに、なぜかくるしい…」
そんな風にぐちゃぐちゃでどろどろな自分の感情の沼にハマっていってしまっていることに気が付いてはいたけれど、どう抜け出せばいいのかも抜け出してしまっていいのかも分からなくなっていく日々だった。苦しくなって、上手くいかなくて、どうすればいいのか分からなくて、どこに向かって歩を進めているのかもうやむやになってく…
なんでもない日の、車の助手席でぼうっと窓の外を見ていた時、
「自分にとっての幸せってなんだっけ」とふと、思った。
”特別な何か”になりたかった、なろうとしていた私にとっての、幸せはなんだろうかと。幸せの瞬間って思い出そうとすると意外と”何気ない日常の一コマ”だったりする。
家族で仲良く笑いあってご飯を食べていた瞬間や
隣で気持ち良さそうに眠っている恋人の顔
国際線のある大きな空港でワクワクした朝の時間とか
何気なく買った観葉植物の新芽が出ていた時
炎天下の日に飛び込んだプールが気持ちよかったあの日のこととか…
私は”特別な私”や”すごいと言われる私”に憧れて、一生懸命それになろうとして、ぐるぐると悩んだり嫌になったりしていたけれど、別にそんなものにならなくても私はちゃんと特別だった。私は特別になんてなる必要はなかった。私はもうすでに、ちゃんと幸せを感じれる私になれていたことに、気付いた。
その瞬間、
「もう無理に頑張らなくてもいいんだよ」と自分に言ってあげれることができた。
いろんな言葉が溢れている
いろんな価値観が混ざり合っている
いろんな情報が蔓延している
いろんな人が生きている
いろんな何かが存在している世界で私は生きていて、いろんなことと関わり合って、これからも私はきっといろんなもの達と出会い続ける。
その中で私はこれから”私自身の幸せ”を軸に置いて、私のために生き続けようと思う。私が幸せだと思う場所で、私が美味しいと思うものを食べて、私が大切にしたい人を大切にして、そんな風に生きていく。
だけど、きっとこの軸なんてものはちょっとしたことで今後もブレそうになると思う。小さい頃から想い続けた”特別な何か”に対する憧れは簡単には消えないだろう。TwitterやInstagramを日々見続けては、素敵なインフルエンサーの生活や為になる情報を発信し続けている万垢たちを羨み、私もそうなりたいと願うだろう。
だけど、天気のいい日に窓から溢れる木漏れ日を見たときや気持ちい風が吹くなんでもない日に、私の幸せを感じて、思い出せばいい。
「私は”なにもできない私”でいいんだ」ということを。
”特別な何か”になろうとしていた自分へ
「もう無理に頑張らなくてもいいんだよ」と自分に言ってあげられなくなっているどこかの誰かへ
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