消毒用エタノールはナゼ70%濃度なのだろう?と考える事と、世界を救えるかも知れないただ1つの事との因果関係。
私は8年程前まで、音楽ともう一つ、歯科衛生士という仕事で二足のワラジを履いていた。
「歯科衛生士」は、
知名度は低いかもしれないが一応医療系の国家資格で、
医師免許でこそないものの、
予防歯科においては医師よりも専門なのでレントゲンの読影からその処置全般を任されている。
日本では「歯医者さんにいる看護師さん」位ののイメージしかないと思うが、
予防医療が中心のアメリカでは医師や弁護士と並ぶ社会的地位のある職業だ。
日本では、”病院”とは「病気を治す所」という位置付けで、
“予防”の専門家である衛生士は、
その教育を受けても本来の仕事は殆どせず(出来ず)、
歯科医師の元で保険の範囲内の歯石取りくらいしか経験せず数年勤務して結婚して離職、というパターンが殆どだと思う。
給料が国家資格者に対する給料とは思えない扱いの低さだというのも結婚して離職、の要因だと思う。
何故こんなにも扱いがアメリカとは違うのか?
日本ではいわゆる「予防」には保険が効かない為、
治療”卒業”後にクリーニングなどの管理を受ける事は保険が効かない為自費となり、
治療を目的として来た「痛かった」患者は、
痛みが取れてしまうと
予防の為に自費で来院を続けるほど「デンタルIQ」が高くない。
要するにニーズがないのだ。
ニーズのない事業は、余程情熱でもない限り誰もやろうとしない。
そもそも歯科医は予防歯科は専門外だし、
予防が成功して虫歯や歯槽膿漏の患者が減れば、
保険点数や、補綴(セラミックなどの被せ物)、インプラントで稼ぐ事が出来なくなってしまう。
そんなわけなので、
多くの歯科医師が8020とか言うけど、
誰も本腰入れて予防歯科なんかやりたがらないというのが実情、だと私は思っている。
かつて私が勤めていた歯科医院は、
とても珍しく予防歯科に力を入れていた。
院長が師として仰いだ歯科医師は
「この日本においてまともな歯科医療をするなら、全て自費でやるしかない」
と、自費専門の歯科医院を開業していた。
その弟子であったうちの院長は情熱を持っていち早く予防歯科を取り入れ、その歯科医院のオープニングスタッフとして、たった一枠しかない衛生士の面接に見事私が受かったのだった。
今思うと、その院長は理想は大層だけど結構小さい男だった。
意識や理想は高いけど、
師匠の理想を自分の理想だと勘違いしているような…。
当時はあまり気づかなかったけど、
今はハッキリと分かる。
第一、私を面接に残した時点で怪しい。
なんで私を選んだのか?と後で聞いたら
「歯並びが良かったから」と言っていた。
おそらく本当にそれだけだったと思う。
私は面接は大抵受けが良いので、
別にそこまでやる気満々で訳じゃなかったけど、
引っ越した先でタイムリーに見つけた求人だったし何とか受かる様に頑張って「化けた」。
その私の化け方がうまかったか、
それとも院長の本当の理想がどこか別にあったか、
難関を勝ち抜いた?理由は、そのどちらかだ。
私は、今回の世界的な感染症ショックで、
アルコール消毒液の濃度について意見が飛び交う中で初めて、
「そういえば、消毒用のエタノールってどうして70%濃度なんだ?」と思った。
国家資格は持っている。
消毒用エタノールの濃度が70%なのも知っている。
1番殺菌に適した濃度だからと言う事も知っている。
でも、何故90%などの、
濃度の濃いものはダメなのか?
効き目がないのか?
疑問すら抱いた事がなかった。
知らなくても仕事に支障はなかったし質問されることもなかった。
要するに興味がなかった。
今、こうして自分や家族の生命を脅かされて初めて、
自分に関係のある事として面と向かい、
何故だろうと疑問を持った。
どうやら、
濃度の高過ぎるエタノールは揮発性が高い為、
充分に消毒出来る前に揮発して乾いてしまうから、らしい。
殺菌消毒の為には、適度な時間、
液体が留まっていなければ効果を期待できない、
その揮発と、滞留が絶妙な濃度が70%なのだ。
なるほど、、
知った途端、
急になんとも言えない気分になった。
衛生士を辞めた時の事を思い出した。
音楽をやりたいのに、
生活の為だけに衛生士の仮面をつけている事が辛くなり辞めた。
その仮面に誰も気づかない。
表向きだけ上手くやってる自分と、
私を信じて疑わない患者さんの言葉や笑顔が
私の首を絞めた。
情熱も知識もない上っ面だけは完璧な私のような人間が、
プロの様な顔をして医療従事者である事が、
私自身を人間不信にさせた。
今の私は、もし、
この曲のこの部分にこのコードは使えない、
などと言われたら、
何故なのか?と食い下がり、自分の納得のできる答えを見つかるまで探そうとするだろう。
疑問をもつ、という事は実はとても尊い事だ。
本気でなければ疑問は浮かばないから。
そして、その疑問に、その声に従って行きさえすれば、”間違う”事はない。
その声の導く先に、本当の自分がいる。
人は時々、その声を聞かなかったフリをする。
聞こえても、その道を選べない事もあるだろう。
別の道を行くという事は、自分を偽って行くという事。
偽りの自分で一体誰を本当の笑顔で包んであげられるだろうか?
1人1人が偽りのない自分で、
その場所で、情熱を持って自分の仕事を果たす。
そこには、
誰からもコントロールされないその人の意思があり、嘘も言い訳もない。
もし意見が食い違っても、
本気でぶつかり合う事で生まれるネクストステージがある。
そんな風に世界の明日が作られて行ったなら、
世界を変える事が出来るかもしれない、
と思うことは、
夢物語だろうか?
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